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【決定版】風水思想はいつ日本に伝来したか? ~古墳の選地に見る風水の影響~

新羅は唐と結んで、660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼします。長く続いた三国鼎立時代は終わり、半島は新羅によって統一されました。

古代中国で生まれた風水思想が半島に入ったのは、この後というのが定説のようです。

「実際三国時代の墳墓、宮家の制度を見てみると、まだ風水説の影響は受けていないようである。したがって、風水思想の伝来は、唐との文化的交流が頻繁になる新羅統一以後とするのが妥当である」(崔昌祚『韓国の風水思想』1997年

では、風水思想の影響を受けた墳墓とはどのようなものなのでしょうか?

まずは、トップにある理想的とされる地形の概念図をご覧ください。青龍と白虎に挟まれた地であることから、「龍虎の勢」と呼ぶ吉地です。

要は、山脈(「龍」)から流れる生気が湧き出る「穴」があり、それを両腕のような2本の尾根「砂」が包み込むような地形です。

こうした地形では生気が溜まりやすく、墓を営むと優秀な子孫に恵まれるとされています。

統一後の新羅で代表的とされる9C後半の興徳王陵が、まさにこの地形に築かれています。

興徳王陵.jpg)

「此地相は高麗、朝鮮時代に最も吉地として考へられた者でこの思想が既に新羅時代に始まつていることは是に依って知ることが出来る」(朝鮮総督府『朝鮮の風水』1931年

では、10C前半に半島を統一した高麗の王陵の地形とは、どんなものだったのでしょうか?

高麗王陵の地勢
高麗王陵の地勢 朝鮮総督府『朝鮮の風水』1931年

「龍虎の勢」とはかなり異なるように見えますが、どのような考え方で選ばれているのでしょうか? 

気が集まる「龍穴」の位置を求める「定穴法」では、好ましい地形を4つに分類しています。

風水における穴形の四象
風水における穴形の四象 朝鮮総督府『朝鮮の風水』1931年

先ほどの高麗の王陵と比較して下さい。確かに、どれかに当てはまっているようです。

では、風水思想が日本に伝来したのはいつのことなのでしょうか?

飛鳥発掘の第一人者として知られる河上邦彦氏(元奈良県立橿原考古学研究所副所長)は「6世紀末頃」とされてます。

理由として、「朝鮮の武寧王陵が、周辺踏査の結果、風水による立地と考えられ、少なくとも6C始め頃には韓国に風水が導入されていたと思われる。これが我が国に影響を与えたのであろう」(河上邦彦「終末期古墳の造墓理念」『考古学ジャーナルNo.655』2014年)とされています。

武寧王陵の地形(GoogleEarthで作成)

これは確かに龍虎の勢です。百済の武寧王はその陵墓から、1971年に墓誌石が見つかっており、523年に62歳で崩御と正確に分かっています。

さて、困りました。最初にご紹介した半島伝来の定説である7C後半から、1世紀半も遡ってしまいました。

考古学の分野は発掘調査がすべてですから、こうしたことはよく起こります。

古代吉備国の古墳にお詳しい松木武彦教授(国立歴史民俗博物館)によれば、東アジアでは、「各地の高塚墳墓が一様に小円墳に単純・簡素化して横穴式の墓室を内部主体に採用するという波」が、5Cから6Cにかけて伝播したと考えられるそうです(歴史読本編集部『古代王権と古墳の謎』2015年)。

この“波”を他地域に先駆けて取り入れたのが吉備国ではないかともされています。(※詳しくは過去記事へ)

そろそろ結論を申し上げますと、この時に武寧王陵のような風水思想に基づいた造墓理論も、同時に持ち込まれたのではないでしょうか? 

そうでなければ、5C後半以降の吉備国の古墳の選地を説明できません。(※詳しくは、過去記事へ)

以上、古墳の選地を手掛かりに、風水思想の伝来期をさぐってみました。

半島と列島に共通な墳墓の在り方「東アジア墳墓文化圏」が形成されていたとの考えからすれば、伝来もほぼ同時期だったとしてもそれほど暴論とは思えません。

武寧王陵の調査では、棺の材料が日本にしか自生しないコウヤマキだったことがニュースになりました。

現代の私たちが想像するより、はるかに活発な交流が日本海をはさんで行われていたのは間違いなさそうです。

蛇足ながら、日光東照宮も風水(陰陽道)に配慮した選地と言われたりします。皆さんはどう思われますか?(笑)

日光東照宮.jpg)

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