聖武天皇の国分寺建立の詔(741年)に、七重塔を持つ国分寺は「国の華」であり、相応しい良い場所を選ぶようにと書かれています。
大型古墳があるような先祖伝来の聖なる中心地が選ばれたであろうことは、想像に難くありません。
この際に、先行して敷設されていた駅路が、どうしても邪魔になってしまい、強引に付け替えたケースもありました。
寺域を横断している青色破線が初期ルート。手前でカックンと折れて迂回している実線が後期ルートです。俯瞰するとこの通りです。
初期ルートの存在を教えてくれるのが、おなじみの条理余剰帯(道代)です。
余談ですが、後期ルートの延長線上にある宮山古墳は5Cの築造とされ、馬具や垂飾付耳飾など半島の影響を強く受けた副葬品が出土しています。
当然ながら立地は風水にかなったもので(笑)、乳穴形です。前方に生気をせき止める案山もあります。周辺の丘陵部は古墳群で埋め尽くされている状態です。
脱線しました。JR山陽線の御着駅を出て、カックン後の駅路を歩きましょう。
延々とまっすぐです。山陽線の踏切を渡ってもまっすぐで、宮山古墳のある山へ向かっています。
おっと!、今回は国分寺が主役でした。公園として整備されており、手前は七重塔跡です。
伽藍配置は下図のようだったそう。
回廊跡も復元されています。
瓦葺築地塀もこの通り。
前方後円墳の壇上山古墳(143m)が寺域にぴったりと寄り添っています。
樹木のせいでただの丘にしか見えませんが、この通りの地形です。
後円部墳頂には石棺蓋が露出していてドッキリ。
この北には陪塚の方墳・山の越古墳があります。
こちらもドッキリ。奥に見えるのが壇上山古墳。
古墳時代と飛鳥・奈良時代は、律令国家か否かという差はありますが、“聖地”の位置に変わりはなかったようです。
備中国分寺の立地もこの通り。山陽道を挟んで反対側に国分尼寺があります。
つづく