現地レポート

東海道ルートはどこ?! 伊勢国府域を訪ねる。

東海道駅路の発掘調査の現況

国府・国分寺の位置が分かっていても、どうしても駅路が復元できないケースがあります。伊勢国府域はまさにそんなエリアです。

中京圏の工業地帯として早くから開発が進んだためのようですが、それでも一か所、古代道路遺構が確認されています。平田遺跡(鈴鹿市平田本町一丁目)です。

鈴鹿市文化スポーツ部文化財課 2020 『伊勢国府跡22』

130mにわたる側溝芯々間が9mの道路跡で、竪穴式住居との切り合い関係から8世紀代の官道と考えられています。奈良時代の東海道本路とみても十分な道幅といえましょう。

なお、伊勢南部では斎宮跡近くで東海道伊勢路が復元展示されていますが、こちらも9mでした。

国府の発掘調査の現況

伊勢国府として国史跡に指定されているのは長者屋敷遺跡(鈴鹿市広瀬町・西冨田町)。鈴鹿川の支流・安楽川の左岸台地上に位置します。下の写真は国庁跡。

国庁の正殿・後殿の基壇が1mほどの高まりとして残っています。写真は西側から見たところです。

国庁の建物配置や規模は、お隣の近江国庁とそっくりで大変立派なものです。

鈴鹿市考古博物館 パンフレット『史跡伊勢国府跡』
 

ところが、この国庁、未完成だったと考えられています。瓦葺丹塗りまで作業が終わりながら、基壇の化粧が施されていません。また、国府域の整備も進んでいません。

どうやら、8世紀中ごろから9世紀初頭までの極めて短期間ここにあり、その後移転したようなのです。理由は全く不明のままです。

以降、奈良時代後期から平安時代の国府位置と考えられているのが、三宅神社遺跡(鈴鹿市国府町)の周辺です。ただし、官衙と決定付けられる遺構は未確認です。

国分寺跡の現状

伊賀国分寺跡(鈴鹿市国分町堂跡)は鈴鹿川左岸の段丘上に位置しています。調査を終え、公園整備が進んでいます。国分尼寺についてはこの東の国分遺跡であると推定されています。

下が復元図です。東大寺式伽藍配置ですね。

現地案内板より

なお、付近の鈴鹿市考古博物館は国分寺以外も古代関連の展示が充実していておススメです。国分寺跡の全景が見渡せる展望台もありますよ!

東海道ルートはどこに?

国府と国分寺、官道遺構を手掛かりにすると、東海道ルートはどのように推定されるのでしょうか?

地元で現在コンセンサスとなっているのは以下のようなルートのようです。

鈴鹿市文化スポーツ部文化財課2020 『伊勢国府跡22』

残念ながら模式図のレベルで、具体的な復元にまでは至ってないようです。

ブログ主も、条理地割や古地図、米軍航空写真、微地形などいつものセットでルート復元に挑戦してみましたが、全く成果なしでした。

いつの日かひょんなことから道路跡が見つかり、古代景観の復元が一気に進むことを祈念しております!

終わり

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