ヤマトタケルは古代東海道を歩いたか―――?
『古事記』『日本書紀』が編纂されたのは奈良時代初め。ですから、そこに描かれたヤマトタケルの東征ルートは、当時の官道網を復元するヒントになるとされてきました。
問題は、どの程度、当てになるか分からないことです(笑)。下図の通り、記紀の間でも大きな違いがあるのです。
奈良時代の古代東海道は、相模国から上総国へと東京湾を渡海していたと考えられています。
一般に古代の国名は、都に近い方から「上~、下~」と名付けられるルール(例:上野、下野)。
相模国側の渡海駅は、三浦半島東端の横須賀市走水というのが定説です。荒れる海を鎮めるために犠牲になってヤマトタケルを救った弟橘媛(おとたちばなひめ)の伝説で有名ですね。
そして、三浦半島を横断する駅路の推定ルートは、ここにを起点にして、鎌倉郡衙跡と見られる鎌倉市今小路西遺跡と繋いで作られたものです(藤沢市教育委員会『神奈川の古代道』1997年)。
近世の往還路である「浦賀道(西ルート)」が、駅路をほぼ踏襲しているとも考えられているようです。
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さて、推定されているルートを地形図上でご覧ください。赤線は定説ルートで、地元では「古東海道」と呼んでいます。なお、オレンジ線はお馴染み『地図でみる東日本の古代』の説です。
次に、走水周辺を明治初めの迅速測図で見てみましょう。複雑に谷と丘陵が入り組んだ地形にご注目下さい。
走水駅西方の、現在は防衛大学がある丘陵に上る部分が、最大の難所だろうと想像されます。といいますか、駅路が通っていたとは信じがたい崖状地形です。
なお、迅速測図で見る通り、馬堀海岸は崖が海に迫り、通行できなかったようです。
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このブログでは、微地形や旧版地図などを手掛かりに駅路の痕跡を探す、古道歩きの新しい楽しみ方を提案しています。
ところが今回、残念ながら、三浦半島の推定ルート上に、明確な痕跡地形は見出せません。ずいぶんと実踏もしてきましたが、奈良時代のwide&straightな前期駅路に付きものの、大規模な工事の跡がどうしても見つからないのです。開発が進んでいない場所であっても、です。
もしかしたら、三浦半島横断ルートは幻なのでは? 過去の凹道探索でも、そんな疑問が強まるばかりでした。
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そもそも、ヤマトタケル伝説の「走水」と現存地名の「走水」の関係は明確ではありません。
『古事記』『日本書紀』では、潮流の速い浦賀水道を指して「走水海」「馳海」と呼んでいます。
また、天平7年(735年)の正倉院文書『相模国封戸租交易帳』に「御浦郡走水郷」が見えますが、具体的なエリアは不明です。周辺で駅家に比定されるような奈良・平安時代の官衙遺跡も見つかっていません。(※詳しくは過去記事↓)
さらに、港津に適した場所ともいえないようです。『地図でみる東日本の古代』では、「水上岩や暗礁が多い」「浦賀水道は西岸ほど潮流が強く、上げ潮流・下げ潮流ともに西方へ圧流され、横断には困難をともなう」と指摘しています。
要は、現在の走水に渡海駅があったというのは、伝説をヒントにした一つの仮定にすぎないということです。
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なお、推定ルートに面して建つ曹源寺(同市公郷町)は、寺域から採集された瓦から創建が奈良時代に遡る可能性が指摘されていますが、発掘調査が行われておらず、伽藍配置を含め確実なことは一切不明です。
Googleストリートビューでご覧頂くと、公郷橋親柱の文様は古瓦で、橋上のタイル文様は伽藍配置を表しているそうです。地元では大切にされているのですね。
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そこまで言うなら代案を示せ!、とお叱りを受けそうです。残念ながらこのブログの方法論では推定ルートを作ることができませんでした。面目ない!(苦笑)
代わりに、中世の鎌倉街道の渡海ルートをご紹介します。下図をご覧ください。
渡海点は、①白山道や朝比奈切通しを抜けて六浦、②逗子から船越切通しを抜けて榎戸湊(同市浦郷町)、③近世の浦賀道と途中まで同ルートで浦賀南方にあった浦河湊(同市久里浜) ・・・の三つがあったようです。(阿部正道『かながわの古道』1981年)
地理条件は奈良時代においてもそれほど変わらないはずですから、参考になるかもしれませんね。
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ということで、冒頭の問、ヤマトタケルは古代東海道を歩いたか?、に戻ると、結論は「分からない」ということになります。おそまつ!(笑)