古代東海道の「終点」常陸国府
行政区分としての東海道は飛鳥時代に発足時、伊勢国から始まり常陸国に至る主に太平洋沿岸の諸国でした。
駅路としての東海道は各国府をつないで伸び、常陸国府で終点となっていたと一般には考えられています。
この考えではその後、陸奥国から一時、石城国が分立し東海道へ組み入れられたため、常陸国府から北へ駅路が延伸されました。
奈良時代初め、『続日本紀』の養老3年(719)の記事に「石城国に始めて駅家11処を置く」とあるのが論拠。
『常陸風土記』の編纂も同じ頃で、他の文献と合わせ、当時、12か所の駅家があったことが分かります。国府以北には安侯、河内、石橋、助川、藻島、棚島の5か所がありました。
ここまでは矛盾ありません。
問題は発掘調査が行われた駅路関連遺跡の推定年代で、飛鳥時代まで遡っているものがあるのです。
国府以北の駅路はいつ作られたのでしょうか?
このわずかな年代差にこだわるのは「古代道路愛」故です!
駅路関連3遺跡をチェック
茨城県内で古代東海道と見られる遺構が見つかっているのは3か所。いずれも国府以北です。青線が問題の区間。
以下、順にチェックしてみましょう。
まずは、ご存じ笠間市の五万堀古道遺跡。 当初、「駅路として8世紀初頭から9世紀まで機能」とされていましたが、後には7世紀後半の須恵器横瓶が出土したことを重視し、道路敷設もこの時期としています。
次に日立市の長者山遺跡。藻島駅家の可能性が高いと考えられている官衙遺跡です。
一緒に見つかった側溝を持つ古代道路は「もっとも遡って8世紀前葉に敷設」された可能性があるとされています。道路と並行する区画溝を含む官衙跡の年代が根拠となっています。
最後は北茨城市の仁井谷遺跡です。
側溝を持つ古代道路は「7世紀後半の範囲以内、さらに絞ると7世紀の終わり頃」に敷設されたと考えられています。
側溝芯々間距離で7.6mから9mに拡幅された際の構築土内から、7世紀後半の須恵器甕が出土したためです。
同一ルート上にありながら年代推定にはこれほどのバラツキがあるのです。
道路は何度も改修整備されながら使われるものですし、建物跡と異なり出土遺物も限られています。年代推定も困難で、特にいつ敷設されたかを特定するのは至難の業です。
道路遺構だけに頼っていては年代特定は難しいということですね!
もう一つの手がかり。台渡里官衙遺跡
水戸市那珂川南岸の台渡里官衙遺跡で行われた第41次調査で、出土物から7世紀後半に遡ると思われる方形区画溝と柵列、竪穴建物跡が見つかりました。
この施設は、豪族居館とも、郡衙に先行する評衙とも推定されています。
気になるのは、方位が古代東海道の推定ルートと並行しており、位置もすぐ脇であること。約200m北東に進むと那珂川渡河点に下りるための切通し痕跡があります。
駅路が7世紀後半にすでに存在していた手掛かりの一つになるかもしれませんね。
建物跡や道路跡の方向は関連性を探る手掛かりです!
国府北方の駅路はいつ作られたか?
まとめると、国府以北の東海道駅路は、
①7世紀後半、飛鳥時代の天智/天武朝期に、全国の他駅路と同様に整備された。
②8世紀前半、奈良時代初めに、石城国設置をきっかけに延伸整備された。
・・・のどちらか判然としないということになります。
駅路というと、延喜式段階の各国府を一筆書きでなぞったようなシンプルなルートを想像しますが、初期の頃には支路が複雑に枝分かれして複線的であったと考えられています。
ブログ主としては、常陸国でも天智/天武朝期に複雑な駅路ネットワークが築かれ、征夷事業(蝦夷征討、東北経営)が本格化するにあたり奈良時代初めに国府北方ルートが再整備された・・・という可能性に魅力を感じるところです。
常陸国の駅路は征夷との関連で見る必要がありあそうですね!
終わり
※主な参考文献
近江俊秀『海から読み解く日本古代史』朝日新聞出版 2020年
茨城県教育財団『仁井谷遺跡 神岡上遺跡 古屋敷遺跡 叶南前A遺跡 一般県道里根神岡上線道路改良事業地内埋蔵文化財調査報告書』2007年
茨城県教育財団『総合流通センター整備事業地内埋蔵文化財調査報告書 仲丸遺跡 久保塚群 五万堀古道 向原遺跡・向原塚群 前原塚 仲丸塚』2000年
川口武彦 『風土記と発掘調査が語る那賀郡の官衙と古代道路 日立市郷土博物館特別展示開催記念講演会「常陸国風土記の世界」講演要旨』2020年
日立市教育委員会『東海道常陸路及び長者山官衙遺跡 藻島駅家推定遺跡発掘調査成果総括報告書』2017年
日立市郷土博物館『特別展示 長者山遺跡がつなぐ古代の道と常陸国風土記の世界』展示解説パンフレット2019年