「かつて大和は東西に二分されていたようである。大和(おおやまと)と葛城の地である」
(河上邦彦「大和古墳群と葛城」『古代葛城とヤマト政権』2003年)
「大和の金剛山・葛城山東麓を中心とする葛城地域を基盤とした葛城氏は、奈良盆地南東部を占める磯城・磐余地域を本拠とする天皇家と、盆地南部を二分する関係にあった」
(平林章仁『謎の古代豪族 葛城氏』2013年)
「5世紀、天皇家と勢力を二分するほどの巨大豪族葛城氏が、奈良盆地南西部の葛城の地に本拠をかまえていた」
(近江俊秀『道が語る日本古代史』2013年)
「4世紀末~5世紀中葉に、葛城氏が強大な勢力をもつにいたった背景として、大和王権の対外進出に際し、その中核として活躍したこと、朝鮮半島から渡来した最新技術をもつ四邑の漢人らを支配下においたことなどをあげうる」
(和田萃「葛城氏と鴨氏」『古代葛城とヤマト政権』2003年)
一時は隆盛を誇った葛城氏も、5世紀末に雄略天皇と対立し滅ぼされます。「歴史は勝者がつくるもの」とよく言いますが、残された文献資料が少ないため、近年の発掘調査によってようやく当時の姿が分かってきたようです。
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知識もなければ興味もなかった(苦笑)私ですが、葛城氏が残した立派な道の痕跡が発掘され、推定ルートが復元されていると聞いては、も~堪りません(笑)。ということで、ごく一部ではありますが、歩いて参りました。
職務が各氏族に分掌されていたヤマト王権にあって、葛木氏は外交を担当していたとされます。そのため、当時の国際港の一つであった紀ノ川河口と本拠地を繋ぐ道を敷設していたようです。現在、この道は、研究者によって「葛上(かつじょう)斜行道路」と名付けられています。
次回以降、下の図のあたり、「葛城の王都」ともいわれる葛城山・金剛山東麓の周辺をご案内いたします! なお、宮山古墳は葛城氏初代・襲津彦(そつひこ)のものと推定されています。
つづく