現地レポート

大和国の古代道路③駅路誕生期の飛鳥京は「石と水の都」。それを作ったのは「石の女帝」斉明天皇だった。

「大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居(たい)を 都と成しつ」
「大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 都と成しつ」
(『万葉集』巻第十九、大伴御行)

いずれも、672年の壬申の乱に勝利し即位した天武天皇を歌ったものです。「都」は、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)を指すとされています。律令国家の建設を進め、そのハード事業の核として駅路敷設を行った天武天皇に相応しい歌ですね。

では、その頃の飛鳥はどんな姿だったのでしょうか? 

古代の都というと、碁盤目に土地区画がなされた平城京、平安京のような中国風都城をイメージしますが、飛鳥京も首都にふさわしい壮麗な街並みが広がっていたようです。なお、明日香村に残る古代の遺跡群を総称して「飛鳥京」と呼ぶそう。

飛鳥京俯瞰2

推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位(592年)してから、持統天皇が藤原京へ遷都(694年)するまでの一世紀間、6代の天皇が宮を営んでいます。皇極天皇の代の飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)と伝えられるエリアからは、多数の掘立柱建物とともに石組みの井戸跡が見つかっています。

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645年の乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子に蘇我入鹿が討たれた場所、と言えば、ピンと来ますでしょうか(笑)。ちなみに、有名な入鹿の首塚はこちら。この多宝塔は中世前期のスタイルですね。

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どこの話をしているのか今一つ、とお嘆きに皆さんは、案内板にありました下の図をご覧ください。東から西の方向を眺めたものです。もう一つ、国営飛鳥歴史公園のサイトにありますこの図もぞうぞ。

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さて、飛鳥京は近年の発掘成果から、「石と水の都」と形容されているのはご存じの通り。

特に、飛鳥川右岸、板蓋宮西方で見つかった庭園・飛鳥京跡苑池(えんち)は有名ですよね。石積みの護岸が特徴で、噴水施設は出水酒船石と組み合うことが分かっています。出水酒船石は、飛鳥資料館にレプリカが展示されています。不思議なかたちです。

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ただし、遺構は完全に埋め戻されており、現地はこんな感じの湿地にしか見えません。残念! 公園としての整備計画が進んでいるそうです。

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ところで、酒船石といえば有名なのは、こちらの方ですよね。酒づくりに使ったのではないか、との説があったためついた名前だとか。現在では、何らかの祭祀施設だったのではないか、という説が有力だそうです。例えば、笹船を浮かべて水を流し、どの窪みで止まるかで、占いをするといったものです。

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忘れてならないのが、亀形石造物。湧水施設から流れ出した水が、亀(スッポン)の鼻に入り、背中に溜まるようになっています。

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3D地図の通り、庭園というより谷底の閉鎖的な空間であり、なんらかの天皇祭祀にかかわる場所であったと考えられています。

亀形石槽と酒船石3D

この地で興味深いのは、丘陵中段に砂岩の切石を積んだ石垣が約700mにわたって巡らされていることです。山城を想像させるため、飛鳥京の“逃げ城”との説もあったようですが、石垣の表面が磨き上げられたりしており、装飾的な役割が強かったと推定されています。

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白村江の戦い(663年)のような国際的な軍事緊張が高まっていた時期なのは承知していますが、国都の防衛施設としてはいかにも不十分です。大宰府の水城や大野城、基肄城を見しまっているもので・・・。

脱線しました(苦笑)。

『日本書紀』の「宮の東の山に石を累ねて垣とす」との記事に合致することから、斉明天皇の「両槻宮(ふたつきのみや)」ではないかという説が最有力です。「天宮(あまつみや)」とも呼ばれましたが、道教では仙人の住む天上の宮を意味するため、関連性が取りざたされています。

この造営のために、運河が引かれますが、その工事のために延べ3万人を動員。石垣を作るために延べ7万人が動員され、当時の人々は「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」と非難したとも書かれています。

すでに幅10m、深さ1.3mの大溝が発掘されており、運河跡だと考えられています。

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すでにお分かりの通り、「石と水の都」を作ったのは、斉明天皇その人だとされています。とってもやり過ぎ感のある斉明天皇ですが、飛鳥京の景色を一変させたそのパワーには感嘆させられます。

明日香村を訪れると各所にある謎の石像群が気になりますが、これも斉明天皇が作らせたものと言われているそう。

吉備姫王墓にある4体は猿石と呼ばれ、近くの田圃の中から掘り出されたもの。その南方に120mに及ぶ石積護岸や敷石がある池跡(平田キタガワ遺跡)が見つかっており、この辺りは飛鳥の南西の入り口とも言える場所であることから、苑池を持った迎賓館のような施設があったのではないか、とも考えられています。

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猿石周辺3D

ここまで来ると、「石の女帝」とあだ名されてしまうのも無理ありませんね(笑)。

最後に、墳墓として有力視される牽牛子(けんごし)塚古墳をご紹介しましょう。「けんごし」とは朝顔のことで、墳形を示しているのかもしれません。近年、当時の大王墓の特徴である八角形墳で切石で覆われていたことが分かりました。

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牽牛子塚古墳の模型

設けられた地形に注目すると、翼を広げたような3本の尾根の中央に位置し、道教の陰陽五行説に由来する風水の影響が伺えるそう。改葬前の墳墓だったともされる岩屋山古墳も同じ地形です。

岩屋山古墳は墳丘の半分が失われているものの、上八角下方墳との見方があり。下方部の一遍は45mもあり、当時としては最大クラスだったそうです。

岩屋山古墳と牽牛子塚古墳の位置 3D
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岩屋山古墳の横穴式石室
岩屋山古墳の復元図
岩屋山古墳

すみません。なんだかやたらと長文になりました。

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