平安中期の『延喜式』に記載された駅家の数は402。駅路の統廃合が進む衰退期であり、最盛期にはこの倍の800程度が存在したと推定されています。
ところが、発掘調査で駅家と確認されているのは、布勢駅(たつの市)とここ、野磨駅(上郡町)しかありません。
郡家やその出先である正倉別院など官衙遺構と見分けがつかないためです。
野磨駅は初期と後期で場所が300m強移動していますが、初期では駅路遺構が、後期では瓦葺礎石建物群が見つかり、駅家跡と結論付けられました。
播磨国の想定ルートで見ると、備前国との国境にあることが分かります。
より詳しい蘊蓄は、仮想探索シリーズの記事をご覧ください。
では、現地を歩いてみましょう!
JR山陽本線の上郡駅を下りて、県道5号線を岡山県境へ向かいます。峠を越えると案内板が見えてきます。後期駅家跡です。
案内板も朱塗り瓦葺。歴史ファンのツボをよく押さえておられます(笑)。先に進みましょう!
正面の台状の辺りが後殿跡。その後ろの斜面にご注目下さい。灌木が植えられているエリアまでが、駅家の敷地でした。
ですから、瓦葺築地塀は斜面をせり上がった後、直角に折れ、坂上を横に渡っていました。驚くべきことに、その跡が明瞭に残っています。
そう言えば、備中国分尼寺でもこんもりとした築地塀の跡が残っていました。
脱線しました。築地塀跡の延長線上に立ち、正殿跡、後殿跡方向を眺めると、駅館の規模がよく分かります。
さて、県道に戻り、初期駅家跡に向かいましょう。
「落地(おろち)遺跡」の看板。大蛇が住んでいた伝説に由来する地名と考えられています。
発掘調査で、ちょうど案内板の下に駅路遺構が見つかっています。まっすぐに後期馬家跡へ向かっています。
では、最後に、後期駅家跡の様子を動画でご覧ください。
つづく