新治郡家からさらに想定ルートを下ります。あっ!、国内で最初に確認された由緒正しい郡家だということをご説明するのを忘れました。m(_ _)m ということで、前回同様、桜川市さんの観光パンフレットで予習下さい(笑)。
水戸線の線路を渡ると、莫大沼(ばくてぬま)の脇に出ます。かつては右側も池だったようです、この現道は、伝路が築堤して渡っていた痕跡と考えられています。
お馴染み明治初めの迅速測図ではこの通りです。
不思議なことにこの先、現道は住宅に突き当たり、左に迂回します。違和感を感じつつ進むと、現道に沿って細長い地割りが伸びていることに気付きます。典型的な直線道の痕跡で、中村氏も「発掘調査によって道路遺構を確認するならば、このb区間が最も確実性があり、かつ残存状況も良好であろうと思われる」(中村 1997年)としています。私も掘ってみたい!(笑)
さらに下ると、「下谷貝長者池」の横を通ります。駅路沿いには長者伝説が残ることがしばしばあります。五万堀古道もそうでした。この北部には白壁郡家が比定されており、とても興味深いのでご紹介しましょう。
「長者池付近には多くの使用人を使った駅路長者が生活していた。道は小栗新治から筑波の主要な幹線道路で、運送業のような仕事で莫大な財産を得た長者は没落し、庭園の池のみが長者池として残った」(真壁伝承館歴史資料館第3回企画展「歴史の道 鎌倉街道と小栗道」パンフレットより)
桜川まで筑波山頂を目指していた伝路は、途中で下の写真のような痕跡を残しつつ、渡河後に方向を東へ変え、峠越えへ向かいます。渡河点からは、筑波郡家を目指し、真南へ向かった伝路も分岐していたようです。
今一度、中村氏の復元図を。
お詳しい方はご存知と思いますが、駅路に比べて伝路の復元はあまり進んでいません。「小栗道」に関しても残念ながら最近、話題が途絶えてしまったようですが、改めてその価値が見直されることを願っています。
最後になりますが、資料収集でお世話になりました真壁伝承館さんに改めてお礼申し上げます。