土浦市中央部は駅路痕跡が途絶える謎のエリアです。
丘陵上を一直線に南下してきた東海道は、桜川の氾濫原を横断した後、ほぼ直角に走行方向を変え、丘陵上を東進したと考えられています。しかし、具体的なルートについては議論が続いています。
ということで、アマチュアなりの推理を試みてみました(笑)。現在最有力と考えられる二説もきちんとご紹介します!
まずは、諸家一致している土浦市北部のルートを確認してみましょう。1946年撮影の米軍航空写真です。是非、拡大してチェック下さい。
ご覧の通り、ビシッと直線道痕跡が走っています。段丘崖から下りる際に切通しとせず、弓なりに膨らんだ坂道となっているのが気になりますが、緩傾斜化のためか後世の改変か分かりません。なお、この北方の痕跡については以前、レポートしました。
丘陵上から眺めると、田圃の区画を斜めに横切る直線道が続いていくのが見えます。道路右側には、「長道路」という字名があったそうです。駅路の通過地に「長途路」「長兎路」という地名が残ることはよく知られています。以前レポートしたこちらの遺構も、笠間市長兎路と仁古田の境界にありました。
直線道を進むと田中町で八幡神社の脇に出ます。平安末期の仁平3年(1153年)創建と伝えられる古社です。
問題はこの先です。桜川右岸の丘陵に上るまで、明瞭な痕跡が途絶えてしまいます。
つづく