「本事業の調査中、中泉集落の北側、長方との地境付近で、上幅12m、下幅5m、深さ2m超を計り、切通し状の延長100mほどの巨大な道路痕跡を発見した」
(茨城県教育委員会 2015年 茨城県歴史の道調査事業報告書古代編『古代東海道と古代の道』)
県教委の5年にわたる調査の中で最も大きな成果の一つが、この痕跡の発見による伝路「常陸・下野・下総連絡路」の復元でしょう!
律令制下での新治郡は、常陸国の西端に位置し、下野国、下総国と接していました。領域は現在の茨城県笠間市、筑西市、桜川市に比定されています。
“巨大な道路痕跡”が、国境を跨ぐ連絡路だったとすると、一国内の地方道というレベルではなく、官人の往来に使われた伝馬路であったのかもしれません。
中村太一氏の定義では、伝馬路とは、「伝=郡家が有していた多様な交通機能の中から、その一部を抜き出して全国的に編成し、中央政府・官僚が利用する交通制度としたもの」です。(中村太一 2000年『日本の古代道路を探す』)
また、中村氏は、「伝路の中でも、主要路線――例えば伝馬路に指定された路線が、直線的な計画道路に改修された」(前掲書)というようなケースがあるのではないかと推定されています。
そうして考えてみれば、この連絡路の駅路に準じたサイズ、直線性も理解できますね。一般的な伝路は、3~6m幅とされています。
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さて、余談ながら、3D地図で微地形を見ると、中泉切通し(勝手に命名)の北東約1㎞に、あやしい影があります。独立丘陵の裾野をトラバースしているようです。
“巨大な道路痕跡”の発見に期待して、現地を歩いてみましたが・・・
ご覧の通りで、何故か、それらしき地形を見つけることが出来ませんでした。残念! 航空レーザー測量後に埋め立てられたのかもしれませんね。
なお、県教委では、60mほど東の現道を想定ルートとされています。