現地レポート

【読切企画】神奈川県大和市に謎の古代道路を探せ!! 平安時代の古代東海道を発見か?!

凹道探索の醍醐味は「?!」ですよ!(笑) とうことで、久しぶりに、往年の名番組・水曜スペシャル「川口浩探検シリーズ」のテイストでお送りします。前回は碓氷峠編。

神奈川県の中央部に位置する人口23万人の大和市。かつて全国の「大和」地名を持つ12市町村で「まほろば連邦」を作っていたことを知る人は少ない。現在の奈良県にあたる大和国に都があった古代、この地には奥州へと連なる伝説の幹線道路・東海道が通っていたとされる。そして、その痕跡がついに発見された?!

引地川源流の谷戸にある公園・泉の森へ下りる坂道、赤い看板のある辺りを注目してほしい。3D地図で微地形を確認したところ、現在の道の脇に、より直線的な切通し痕跡の存在が浮かび上がった?!

大和市の切通し痕跡?!

そして、谷戸の反対側にも、切通し痕跡が残っている。写真は坂上から振り返ったところだが、ゆったりとした幅に注目してほしい。

IMG_0622

驚くべきことに、二つの切通しは、一本の直線状に並んでいる。賢明な読者ならお気付きだろう。谷を迂回せず真っすぐに横切るのは、直線性に拘る古代道路の特徴だ。

状況を整理しよう。定説では、平安時代の東海道は、下の図の青線を通っていたと考えられている。近世の矢倉沢往還、または大山街道がそれを踏襲したという訳だ。謎の切通しが古代道路だとすれば、黄色破線が想定ルートとなる。

青線はご覧のとおり谷頭部をグニャリと曲線的に迂回している。中近世の道らしい姿だ。このブログの読者なら違和感を感じたに違いない。古代の道はもともと、黄色破線を進んでいたのではないか? 明治時代初めの迅速測図が真実を描き出している。

謎の切通し痕跡?! 迅速測図
出典:歴史的農業環境閲覧システム(農研機構農業環境変動研究センター)

もう疑う読者はいるまい。突然蛇行を始める青線ルートの方が不自然だ。黄色破線はやや左右に振れるものの、ごく自然に直進する。そして、境川渡河前の転向点先に、おどろくべき地形が隠されていた!!

深見城の堀切(天竺坂)

底幅5mはある凹道だ! 3D地図で俯瞰してみよう

天竺坂3D

台地上から真っすぐに河原へ下りるその姿は、まさに古代道路の切通し痕跡だ! しかし、賢明な読者は気付いたに違いない。その右(東)側に見える複雑な凹凸を。

これは中世城郭「深見城」の遺構だ。現地案内板の縄張り図をご覧頂きたい。

IMG_0643

注目頂きたいのは左端の大きな堀切。切通しに見えたのは堀底道で、現在では「天竺坂」と呼ばれている。では、古代道路の痕跡ではないのだろうか?

ここで、1947年撮影の米軍航空写真をご覧頂きたい。境川手前までの想定ルートを赤色で示した。明確にラインは見て取れるが、問題は渡河後に痕跡が途絶えることだ。なお、青線は矢倉沢往還。

USA-M377-32_19470724_大和市 (2)線付き

また、切通しを下っていくと、しだに道幅は狭くなり。古代道路らしい姿を失う。

深見城の天竺坂

この切通しが、廃城後(16世紀末以降?)、街道として使われ、かなりの交通量があったことは、踏み跡の硬化層が物語る。

IMG_0663

しかしながら、発掘調査でトレンチが入れられ、空堀が確認されている一方で、古代道路の痕跡は報告されていない。では、元々あった古代道路の切通しを利用して城郭が築造され、痕跡は消されたのではないか?

残念ながら、yesともnoとも断言できるだけの手がかりは存在しない。この切通しの延長ラインが、矢倉沢往還に合流しているのは確かなのだが。

今回の調査では、古代東海道の痕跡と断定することが出来なかった。しかし、微地形と旧版地図から古代道路を探し出す凹道探索の醍醐味を十分に堪能することができた。

町中でも探検はできる。読者の皆さんも、是非、地元でチャレンジしてみてほしい。

(完)

◆◆

川口探検隊風レポート、いかがだったでしょうか(笑) 矢倉沢往還/大山街道が東海道駅路として使われたとされているのは、平安時代のこと。この頃になると、駅路は幅が狭められ直線性も失われていきます。一方で、中近世にも使い続けられたケースが多いそう。今回レポートした古道痕跡が、やや曲折し幅も狭いのは、後世まで長く現役を続け改修が繰り返されたためかもしれません。数百年にわたる土地利用の歴史が刻み込まれているのでしょうか。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA