現地レポート

大和国の古代道路 ⑪大和三道横断ウォークで古代道路を堪能! (その4 斜方位直線道路の位置付け)

二本の斜方位直線道路は、古代の交通路体系の中で、どんな位置付けにあったのでしょうか? まずは、痕跡を手掛かりに復元されたルートを、明治時代の旧版地図で見てみましょう。

田原本町の明治地図 超俯瞰
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成

本ブログではこれまで、奈良盆地の古代道ルートについて、歴史地理学の中村太一氏、考古学の近江俊秀氏の著書を参考にさせて頂いてきました。しかし今回は、最新の発掘調査を踏まえた重見泰氏(県立橿原考古学研究所)のをご紹介いたします。若手研究員を応援したいからです!(笑)

保津・阪手道は、港津のあった難波や住吉と、ヤマト王権の中心地であった磐余(いわれ)を結んでいます。古墳時代前期の生活道であったものが、磐余に大王宮がおかれるようになった6世紀後半に、側溝を伴う大規模道路として整備されました。

この流れ、古代豪族・葛城氏の葛上斜行道路に似てますね。

一方、筋違道は、斑鳩と飛鳥をほぼ最短距離(約17㎞)で繋いでいます。20m前後という道幅から、下ツ道と同時期に同規格で敷設された官道ではないか、と推定されているようです。

きっかけとなったのは、厩戸皇子(聖徳太子)による推古9年(601)の斑鳩宮の造営だとも。太子が推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)へ通う道として敷設したので「太子道」と呼ぶ、という言い伝えもあるそうです。

発掘調査では両道共に、奈良時代後半まで使用されていたと考えられています。大和三道など正方位直線道路と斜方位直線道路は、飛鳥~奈良時代まで並存していたことになります。

二種類の道の姿の違いは、敷設の主導者が異なるためではないか、などと私は想像してしまいます。例えば、太子と蘇我馬子とか(笑)。

語りが長くなりました。写真を交えて、現在の痕跡を辿ってみましょう。

まずは、初瀬川左岸に渡った村屋社の南です。保津・阪手道の痕跡である直線的な地割が続いています。

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1961年の米軍航空写真だと、右下にあたります。

MKK618-C9-8 19611130 田原本町
MKK618-C9-8 19611130 田原本町

本ブログの読者ならご理解頂けると思いますが、私、古代の景色を想い、ここで5分ほど立ち尽くしておりました(笑)。

村屋社を過ぎると、やや屈曲し、森市神社にぶつかります。ご祭神は生雷神で、壬申の乱で大海方に味方した三柱の一つであります。

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鳥居の左側にさりげなく小路が見えますね。これが痕跡の続きです。

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真っすぐ続く道が転向するのが、阪手の地です。推古18年(610)に、新羅使と任那使を迎えた「阿斗河辺館」の有力比定地です。旧家が連なりとてもムードのあるエリアです。

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ただし、重見氏は、「阿斗河辺館」の場所について、海石榴市の初瀬川対岸にある桜井市粟殿(おどの)の可能性を指摘されています。冒頭地図の右下です

さて、保津・阪手道は阪手で、下ツ道

と交差します。残念ながらこのエリアでは下ツ道は寺川に姿を変えており、古代の面影はありません。

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気を取り直して西に進みましょう。途中で、羽子田遺跡の脇を通過します。次の写真は、いよいよ筋違道との交差点です。

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拍子抜けするほど普通のT字路ですねぇ・・・。でも、この左が多新堂遺跡ですから、間違いなく官道交差点であります。

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筋違道もやはり古い町並みが美しい!。それにしてもこの直線ぶりは見事。

聖徳太子の通勤路だったんですかねぇ・・・。でも、斑鳩から飛鳥までちょうど駅路の一駅分(約16㎞)あるんです。従者に馬を引かせれば2~3時間ですね。サラリーマンの私としては、ちょっときつい通勤時間です(笑)。

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