鳥取平野の因幡国府域では山陰道遺構は未発見で、具体的なルートについて諸説あって結論が出ていないようです。
となれば、ルート復元にチャレンジせずにはいられないのが、このブログです(笑)。今回はこの超マニアックな作業にお付き合い下さい。
※このブログでは「国府域」とは、国庁と周辺官衙を中心に国分寺・尼寺を含む広い範囲を指します。
◆
まず、周辺国を含む官道ネットワークは、おおよそ下図の通りのイメージと考えられています。
では焦点の国府域について、おなじみのバイブル「地図でみる西日本の古代」で見てみましょう。
一方で、県埋蔵文化財センターさんが先日開かれた企画展「因幡の国府・国分寺・官道」のパンフレットでは、下図中央の黒点線を推定ルートとされていました。
双方共、国府域を山陰道が東西に横断していた、ということでは一致しています。違いは、国庁西の独立丘陵「大路山(おおろやま)」の南北どちらを通過したと考えるかです。
下図は、故・木下良先生の「辞典日本古代の道と駅」(2009年)に掲載されていた地割図です。
「日本古代道路の復原的研究」(2015年)で詳しい説明がありましたが、図を描かれた戸祭氏はまさに県埋蔵文化財センターさんのようなルートをお考えだったようです。
ということで以下、両説を踏まえ、本ブログとしての仮説を立ててみたいと思います。手掛かりは三つ。条理地割と旧版地図、微地形地図です。
◆
国府域にはかつて、碁盤目状の条理地割が明瞭に残っていました。おなじみ米軍航空写真をご覧ください。右端の集落が国分寺跡の微高地です。
これならば地割線を丹念に復元すれば、駅路の道路敷も自然と浮かび上がるだろうということで、1974年の航空写真をベースに、Kashmir3D上で作業してみました。
結果分かったのは、単一系統の地割が広がっているのではなく、エリアによって異なる系統が混在し、不整合な部分が存在することです。
鳥取平野を流れる千代川は改修以前は大変な暴れ川だったそう。氾濫によって地形が撹乱された場合、再測量により条理線を引き直し、灌漑工事もやり直しとなったことが想像されます。
この不整合部分の代表的なのが、上図中央右の丘陵北端。米軍航空写真でアップすると、上段と下段の異なる系統の方格に挟まれて、縦が狭い長方形の地割が出来てますよね。
この不整合は何を意味しているのでしょうか? 詳細に検討するために、不整合の中心と見える大路山南端を原点に、四つの象限毎に検証してみましょう。
以下、次回。