”古代道路のデパート”鳥取市青谷町
「古代の道づくり」の技術や思想を解明する上で、重要な手がかりを与えてくれる遺跡群が、鳥取市青谷町養郷地区で発掘調査されました。養郷宮之脇(みやのわき)、養郷新林(しんばやし)、養郷狐谷(きつねだに)の三遺跡です。
青谷東側丘陵と呼ばれる丘陵地で、中国山地から日本海へと突き出す長尾鼻へと続いています。
東西に横切るためには、西は養郷坂、東は会下坂を経て、複雑な地形を越えなければならない険しい峠道となっています。
丘陵西に広がる平野部でも道路遺構が確認されていて、青線のようなルートが復元されています。典型的な元・潟湖(ラグーン)地形で、かつては湿地が広がり古代道路設計者を悩ませたことでしょう。
平野部から青谷西側丘陵にかけての道路遺構・痕跡については過去記事をご覧ください!
なお、青谷町は国際性豊かな弥生時代の遺跡で知られてきました。機会があれば是非、青谷上寺地遺跡展示館に立ち寄り下さい。
養郷狐谷遺跡からスタート!
では、養郷遺跡群の見所を西から東へとご案内いたしましょう!
遺跡群の入り口とも言えるのが、会下坂を登り切った場所にある文政12年(1829年)の道標。「右 青屋道 左 蔵内道」と記されています。
右奥に見えるのが山陰道を踏襲した現道(旧・鹿野往来)で、左奥に見える丘陵へ直進していきます。
ほどなく現道脇のトレンチ3跡に着きます。1期道路側溝、2期道路側溝、3期道路硬化面と3期に分けられる道路遺構が見つかっています。
養郷遺跡群で共通しているのは、1期に側溝を持つ幅9mの道路が築かれ、2期に5mに縮小、3期は側溝を持たない浅い溝でつくられた道路となります。
年代特定は難しいようですが、全国的に見られる前期駅路から後期駅路への道幅減少、そして廃絶へ、という流れと一致しています。
さて、いよいよ丘陵尾根部へと入ります。
現地を見る前に、養郷遺跡群で使用されている道路工法について予習しましょう! 丘陵の高い部分を切り崩して平坦面をつくる切土(オープンカット)工法が基本で、地形によって下の四つを使い分けているそうです。
ここはトレンチ1跡。工法Aが用いられています。山側の1期道路側溝のみが見つかっており、谷側は崩落してしまったものと考えられています。
こちらは谷への下り坂部分。斜面を斜行して緩傾斜化しています。未調査ですが、工法Aが用いられているのはまず間違いないでしょう。
奥に見えるのが養郷新林遺跡のある丘陵尾根部です。
美しい凹道が待つ養郷新林遺跡へ
古代道路を踏襲している現道で緩やかに尾根へと登っていきます。
見逃してしまいましたが、左側法面でのトレンチ5では古代道路遺構でよく見られる「波板状凹凸面」が見つかっているそうです。
核心部分の丘陵尾根部。まずはトレンチ2跡から。
工法Aが用いられ、平坦面を作り出しているのがよく分かりますね。1期・2期側溝、3期道路が見つかり3期変遷が確認されています。
この素晴らしい凹道はトレンチ1跡。丘陵最上部を工法Cで切り通しています。3期道路のみが検出され、1期・2期側溝は道路改修(再掘削)で消えてしまったと考えられています。
さらに進むと、道路痕跡は現道によって一旦断ち切られます。写真は現道側から振り返ってみたところ。関表には「右ハ志加奴道 左ハ山みち」と記されているそうです。
こちらはトレンチ4、工法A。地山の岩盤層まで掘り下げた後、切土を利用した厚い盛り土が丁寧に施されていたとのことです。
”つづら折り”の養郷宮之脇遺跡へ
いよいよ国内初確認のつづら折りの古代道路跡とご対面です! 前置きなしで写真をご覧ください。
トレンチ9から下っていきます。奥にトレンチ2が見えています。
ヘアピンカーブ部分をトレンチ2から見下ろしたところです。
次にトレンチ3から見上げたところです。
いずれも工法Aが用いられていますが、尾根部分より施工規模が大きいとのこと。またトレンチ9では側溝外側の盛り土に人頭大の石を入れて補強してあったそうです。
駅路がグルングルンとカーブしているのを目の当たりにして、大興奮のブログ主でした。駅路は基本的に直線というのがこれまでの常識でしたので、トレンチ群を目の当たりにしてようやく実感出来た次第です。
どうしてつづら折りの線形が選ばれたのかについての考察は過去記事をご覧ください。
そのまま古道を下っていくと青谷町の平野部を見渡せる場所に出ました。古代においては、目の前に条理が広がり山陰道が横切る景色が広がっていたことでしょう。
これにて養郷遺跡群のご案内を終わります。長文にお付き合い頂きありがとうございました!
終わり