急傾斜地での古代官道
古代山陰道の発掘確認が続く鳥取県青谷町で、またもや画期的な発見がありました。急斜面をグネグネとカーブしながら上り下りする、つづら(九十九)折りの道路遺構が見つかったのです。全国で初めてとあってニュースになりました。
でも、日光いろは坂を例にだすまでもなく、勾配の緩傾斜化のためによく見かける道路構造ですよね? 日本の国土は70%が山地です。古代官道はつづら折りを使わずにどうやって急傾斜地を通過していたのでしょうか?
古代官道(駅路)は早馬を乗り継いでの高速通信インフラの機能があり、二点間を最短距離でつなぐ直達性・直進性が特徴です。途中で丘陵部にぶつかったときでも、大規模な土木工事で強引に通過してしまいます。
島根県出雲市斐川町の杉沢遺跡などが好例です。
富山ー石川県境の倶利伽羅峠の古代北陸道でも、尾根上に切通し痕跡が残っています。
「つづら折り」を選んだ理由は?!
では、養郷宮之脇遺跡ではなぜ全国的には珍しい構造が選ばれたのでしょうか? 発掘調査にあたった鳥取県埋蔵文化財センターでは、「直登が難しい急斜面に古代山陰道を建設したために、やむを得ずつづら折りの線形を採用したのではないか」とのご見解です。
現地は30~33度の急傾斜地とのことで納得です。では、何度までなら古代官道は通常の切通し構造を使ったのでしょうか? この論考としてよく引用されるのがこちらです。
古代官道を走る馬の登坂力の限界が25度前後であり、これを基準に構造が決められたらしい、ということですね。大規模な土木工事で切通し道を作るのがスタンダードですが、養郷宮之脇遺跡の場合、地形的に他の選択肢がなかったようです。
とはいえ、駅路設計者が全くのスクラッチからつづら折り構造を思いついたとも思えません。杉沢遺跡が示唆するように、大陸から技術導入がなされた可能性はないのでしょうか?
秦直道にもあった「つづら折り」
秦の始皇帝が2,200年前に全国に整備した道路網「馳道」の中で、対匈奴の南北軍事道路としてつくられた直道。
実はこのルート上でも、つづら折り構造が確認されているのです!
陝西省富県張家湾郷の道路遺構では、山稜部から渡河点に下りる際、つづら折り構造をとっています。道幅は20~40m。北側部分のみGoogle Earthで大まかに復元すると下の通りです。
養郷宮之脇遺跡で見つかった山陽道遺構は幅9mでありサイズは全く異なりますが、親子の様に似ている、といったら言い過ぎでしょうか?
日本と大陸の交通制度の違い
古代中国において幹線道路は車が走ることを前提に設計されていました。秦の始皇帝が国内統一後、道路の轍の幅を一定として通りやすくするため、車輪幅を統一しというのはよく知られています。
ですから、道路の勾配は緩やかでなければならず、坂道ではつづら折りが普通に用いられていました。一方で日本では主役は坂に強い馬です。このため切通し構造がスタンダートとなったようです。
しかしながら、他の古代官道でも25度を超える傾斜地はあったはず。もしかしたら今後、各地で見直しが進みつづら折りが見つかるかもしれません。
以 上