山陰道の痕跡を辿ると、「塞の神」の祠によく出会います。 悪霊や悪疫は道を通って入ってくると信じられていた頃に、それらを遮るため村境や峠、辻に祀られていたものです。
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下の写真はその一つ、「布志名才ノ神(ふじなさいのかみ)」です。前回ご紹介した松本古墳群Ⅰ区の西、松江市玉湯町にあります。左手の道が旧道で、祠はそちらを向いています。
後ろに見える山陰自動車道松江玉造IC の建設に伴って移設されたもので、旧地はここ↓。奥には宍道湖と松江市街が見えます。
移設に伴い、遺跡として発掘調査が行われました。当時の姿になにか神々しいものを感じるのは私だけでしょうか?。
(下の写真・図はいずれも、建設省中国地方建設局松江国道工事事務所・島根県教育委員会「一般国道9号松江道路(西地区)建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書4」1997年より)
積石を取り除いたところ、直下から、平行して走る3本の溝が見つかりました。山陰道の想定ルート上にあることから、現在では駅路側溝であったと考えられているようです。
1997年の航空写真(国土地理院サイトより)を見ると、道路工事前の地形が分かります。西側には帯状窪地も見え、駅路がやや蛇行しながら走っていた様が見て取れます。
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でもなぜ、駅路側溝の直上に、塞の神が祀られたのでしょうか?
結論の前に、もう一つの発掘例をご覧下さい。松江市大庭町の勝負谷遺跡です。
駅路側溝が後世に道として使い続けられた遺構と考えられていますが、ここでも直上に 塞の神 の積石塚が見つかりました。写真の円内です。
(下の写真・図は、松江市教育委員会財団法人松江市教育文化振興事業団「渋ヶ谷遺跡群発掘調査報告書」2006年より)
調査報告書でも注目し、村・集落防衛機能の他に、「道路の真上に築くということは、何らかの別の意味も含まれているのではないか」と指摘しています。
両遺跡の例を踏まえ、故・木本雅康さんは、「 塞の神 が、道路廃絶後の近い時期に、道路を塞ぐ形で祀られたことになる」、「道路を塞ぐことの意味については、疫神や悪霊は、道路を伝わって入ってくると考えられていたので、それを遮断する働きがあったのではないだろうか」 (「古代官道の歴史地理」2011年)とされています。
つまりは、官道としての役割を終えた駅路を霊的に”塞ぐ”ために祀られた、ということでしょうか。
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最後にもう一つ、塞の神をご紹介します。次回レポート予定の丘陵尾根上を走る山陰道遺構、杉沢遺跡等の西側延長線上に祀られているものです。
この下は未発掘ですが、やはり駅路が埋もれているのかもしれませんね。