鎌倉から逗子へと奈良時代の東海道が通過していた、というのが定説です。お馴染みのバイブル『地図でみる東日本の古代』では、下図の通り記されています。
これは定説の走水渡海説。当ブログは逗子市で三浦半島を横断して東京湾へ抜ける船越渡海説です😊
一方で、中世史の専門家の皆さんは、頼朝以前の平安時代末には、下図のような南北道と東西道2本が存在したとお考えです。当時の海岸線が書き込まれています。(岡陽一郎「義朝以後の鎌倉」『三浦一族研究 第八号』2004年)
同じ岡陽一郎氏の地図ですが、地名が入っているバージョンです。(岡陽一郎「都市周縁を走る「みち」-犬懸坂への「みち」から-」『中世のみちを探る』2004年)
北側の東西道は、朝比奈切通方面を通って六浦へ向かうルート。南側は名越切通方面を通って逗子に抜けるルートです。
定説では、南側が奈良時代の東海道であったと考えられています。
ところが、実はもう一つの説が存在します。下図左下の「Bルート」と書かれた、小坪から披露山を越えるルートです。(依田亮一「古代相模国における山川藪沢開発の諸相」『神奈川考古 第47号』神奈川考古同人会 2011年)
お馴染み迅速測図で明治時代の地形を見ると、下図の通り、確かに一部、道はあったようです。
特に赤線の辺りは、「七曲古道」とも呼ばれ、現在でも凹道地形が残っています。ただし、廃道化して長いようでV字浸食が進んでいます。
むき出しになった木の根の位置からすると、元の地表面は赤線のあたり。古道はおよそ青線のような断面であったことでしょう。底幅一間(約1.8m)程度あり、よく見る鎌倉街道の跡と似ています。
ただし、壁面にいくら目を凝らしても、下の写真のような典型的な多層断面構造が見つからないのです(三島市の平安・鎌倉古道跡)。
つまり、大規模な土木工事が行われた形跡が見当たらないということ。
してみると、少なくともこの七曲古道は鎌倉時代に主要道路として整備されたものではないのではないか、と考えられます。
ましてや、他地域で見られる奈良時代の東海道の姿とはスケール感がかけ離れています。下は水戸市の超ビッグな切通痕跡です。
中央部が生活道として深く切り下げられていますが、古代の道路痕跡は両脇の上段部と見られます。
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さてさて、では、古代の地形はどうなっていたのでしょうか? 下図の通り復元されているのですが、どうやら小坪方面は海岸線が現在より後退しており、湿地帯や海に迫る崖で、とても官道を敷設できたような地形には見えません。
kashmir3Dで微地形を確認すると、現在でも水色から紺色のエリアが低地となっています。
ということで、奈良時代の古代東海道は、南側の東西ルート、つまり名越切通の周辺を通過していたと、このブログでは結論します。
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とはいっても、現状の名越切通はとても古代官道には見えない、道幅の狭いルートです。鎌倉期以降の度重なる改変で元の地形が残っていないのでしょうか。
1945年の米軍航空写真に微地形データをのせてみたのが、下図です。青線が現在の切通ルートです。尾根上の樹木がまばらで地形がよく見えますね。
名越切通では発掘調査が行われていますが、残念ながら古代はおろか鎌倉期まで遡る道路遺構も確認されていません。
最後に最も正確と考えられる発掘調査報告書の地図を引用いたします。(逗子市教育委員会『史跡 名越切通 整備事業に伴う発掘調査報告書』2012年)
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蛇足の続きですが、かつてはこの切通、”鎌倉城の防衛遺構”の見本と言われていました。
ところが発掘調査の結果、城壁として作られたとされていた大切岸は14Cから15Cの石切り場で、
人ひとりしか通れないような狭さの岩が迫った有名な個所も落石によるもので元は2.7m以上あったと分かっています。
鎌倉期の道路遺構そのものが確認されていないので結論は出ていませんが、現状の切通を見て往時を偲ぶのは難しそうです。
この辺のお話は、逗子市の解説サイトをご覧下さい。