田畑の中にこんもりとした塚状の土盛りがあり、石祠などが祀られています。その場に立って見回すと、東西約90mの堤防状の連なりがあることに気付きます。館址である「矢部城跡」の土塁跡とされています。
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ホリワリストとして気になりますのは、東山道駅路の推定ルートとほぼ一致していることです。群馬県のGISサイト「マッピングぐんま」の該当ページをご覧下さい。
付近では、大道東、大道西遺跡など、側溝心々間距離13m前後の駅路遺構が見つかっています。そのラインを延長したものが推定ルートですから、確度はかなり高いはずです。各遺跡の位置関係は下の通りです。右端の方。
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戦後の米軍航空写真と見比べてみて下さい。右端のうっすらと四角い城館の痕跡が見えますよね。
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さらに土塁を挟んだ西方には、想定ルートに沿った直線的な道と古い町並みが残っています。明治期初めの迅速測図にも見えます。
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![](https://64.media.tumblr.com/3d80618467ac37b9a3aaeb906b8ebc1a/tumblr_inline_ps360qTDp31r4rrp5_540.jpg)
以上の状況証拠をもとに推理しますと、この土塁が駅路の上に築かれているということになります。さらに言えば、低地に盛土をして作られた駅路の堤防状痕跡を利用したのかもしれませんね。
ここまでがホリワリストの限界(苦笑)。でも、そんな景観の変遷を想像しながら歩くのは、格別な楽しみです。