ようこそ! 全国の古代道路ファンの皆様!!(いるのかな?・・・) 今回は一緒に、下野国で探索の旅をいたしましょう。
古代下野国である栃木県では、東山道跡と見られる遺構が多数見つかっています。ところが分布が偏っていて、国府域を含む南西部は空白地帯。そのため、このエリアでの推定ルートは資料によってかなりバラつきがあります。
下の図は、その中でも最もシンプルなものです。(『高根沢町史 通史編Ⅰ』2000年より)
「イ」の北台遺跡からまっすぐにラインが引かれています。この遺跡は県内で最も南側で見つかった東山道とされる道路遺構です。
では、今回の現地踏査はここ北台遺跡、通称久保公園(下野市小金井)からスタートしましょう!
普通の児童公園に見える? いえいえ、この通り、側溝心々間約12mの
立派な 奈良時代の前期駅路の遺構が確認され、さりげなく復元展示されています。
後世に側溝が堀り直され、道幅が狭められた形跡がないのに注目下さい。(※現地案内板より)
発掘当時の模様はこちら。
では、想定ラインをまっすぐと南西へ辿ってみることにしましょう。住宅地を抜けて畑地、田んぼの間を進みます。途中痕跡はゼロ。2㎞ほど歩くと大きな前方後円古墳が見えてきました。
下野国三大古墳の一つ、琵琶塚古墳です。
近づいてみましょう。
墳丘長約125mで、県内2位。6世紀初頭の築造と考えられ、国史跡に指定されています。
向うに回り込んでみましょう。
三段築成であること、周濠があることがよく分かります。案内板はこの通り。
そのまま進むと、県内第三位の摩利支天塚古墳が見えてきます。
全長約117mで、5世紀末の築造とされています。やはり、国史跡。
案内板はこの通り。
3D地図で見ると明瞭ですが、先ほどのライン(青線)はこの古墳の周濠の外、ぎりぎりを通過しています。
ちょっと面白いのが、後円部からほぼ北の方角に伸ばした赤のライン。この先にあるのは・・・
下野国分寺です。
古代において神聖なラインだったのでしょうか。
とても綺麗に復元展示されています。
参道はこのように復元展示されています。
ついでに、国分尼寺も見てみましょう。
真円にキレイに加工されていた礎石(復元展示?)が並んでいます。
古代寺院跡はずいぶん見てきましたが、このタイプは初めて。調べてみたところ、有名な大谷石でした。すぐ北方の宇都宮が産地だったんですね。
全体図は案内板でこの通り。
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さて、摩利支天塚古墳まで戻り、さらに南西に想定ライン上を進みましょう。
思川にぶつかりますが、どうやらこの辺は古来、渡河点となってきたようです。
明治時代の迅速測図で見るとこの通り。地図の座標が少し南北にずれていますね。
渡舟に乗るために河原に下りる場所には切り通しの痕跡が3D地図でも見えます。
近年では堤防が築かれ、塞がれてしまっていますが、その名残の地形があります。
ブログ主はこの周辺が古代でも渡河点であったと想像しています。理由は地形です。
迅速測図を元にした国土地理院作成の「明治期の低湿地」をご覧下さい。
オレンジの楕円で描いた渡河点より北は川原が広く流路が複雑に分岐しています。大雨などで増水する度に流路は変わったでしょう。
また、中央の縦長楕円に見える田圃は「老沼/生沼」という地名で、かつては氾濫原の一部であったと想像されます。
やや南の橋上から見た渡河点方向です。
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さて、少しショートカットして国庁を訪ねてみましょう。
発掘確認済みで、前殿が復元展示され公園となっています。
その後ろに奥殿があったはずですが、神社敷地内のため未発掘。
それにしても国庁奥殿跡に神社が立っている例は全国的に本当に多いですね。国の中心であった大切な場所、という記憶が残っているのでしょうか。
入場無料の記念館が併設されており、様々な出土品や展示パネルを閲覧するこが出来ます。その中の一つに、戦後撮られた米軍航空写真(USA-R382-16)上に東山道の推定ルートを描いたものがありました。
再現してみたものが下の写真の赤線です。
国府域手前で緩やかに「く」の字にカーブして東に進み、国庁から伸びる南北道と交差していたと考えられています。斜行地割は碁盤目状の条理地割の中でよく目立ち、行政界ともなっています。
古道の痕跡であることに異論はないでしょうが、古代駅路である証拠はあるのでしょうか? 実は私、このルート上で、現代の航空写真に決定的な証拠を見つけました! クロップマークです。
畑地にくっきりとレールのような二本の線が浮かび上がっています。他所の例にあるように、地下の駅路の側溝が地表に浮き出たものでしょう。
えっ!、偶然じゃないかって?(笑) いえいえ、Google Earthの過去の写真でも見えていますので、条件によって見えるのは間違いないでしょう。
興味深いのはその道幅です。側溝心々間距離を測ると約9m。全国で確認されている平安時代の駅路の幅と一致しています。
県内の遺構の例でも、側溝心々間距離12mを超える前期駅路が、9世紀中ごろより後に、幅員を減じた後期駅路へと付け替えられているのが分かっています。矛盾はありません。
以上から、この推定ルートが、平安時代の東山道であった可能性は高いと考えます。ただし、ここより東側をどう進み、どこで思川を渡ったかは手がかりがなく不明です。
ところで、この後期駅路(赤線)は北台遺跡の延長ライン(青線)とつながるのでしょうか? 答えは下図の通り。
全く繋がりません!(笑) どうやら付け替えられた際、後期駅路は国府域を経由するルートを選んだようです。全国的に見ても郡家など地域拠点に立ち寄る、地元に優しいルートに変わった例は多くあります。
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さて、この新旧二つのルート、実は両方とも真っすぐに目指して進むポイントがあります。
独立丘陵の磯山(標高51m)です。
赤線の後期駅路はドンピシャリ(古い?)で、Aと記した磯山の最高点にぶつかります。そこにあるのがこの奇岩「天狗岩」。周りの樹木などがなければ平野を一望できる場所です。
磯山が駅路設計の目標点になっていることは、故・木本雅康さんがご指摘されています。私は一歩進めて、天狗岩上が測量点であったのではないか、と想像するところです。
一方、青線の前期駅路はギリギリ南を掠めて通ります。
興味深いのはB点。
藤原秀郷が将門の乱平定の折に勧請したという諏訪神社の参道が、前期駅路との交点でちょうど一旦途切れ、一般道と交差しています。
全くの想像ですが、参道は元々、神社と前期駅路を繋いでいたのかもしれません。
なお、後期駅路ルート上のC点では、米軍航空写真で直線地割が明らかで、木本さんも実踏して帯状窪地をご確認されています。
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さらにこの先はどうなっていたのでしょうか?
正直、手がかりがほとんどないのですが、地形的な制約から、
岩舟山の南、三毳山の北の平地を通過したのは間違いないはずです。
前期駅路ルートについて、最短距離で進むラインを描くと、D点のあたりで一度屈折する必要があります。
このD点、実は愛宕山古墳(直径50mの円墳とされていますが、どうやらホタテ型前方後円墳)で、 平地上でよく目立ちます。屈曲点を設計する上で、目印になったのかもしれません。
D点の先、想定ルート上から真西を見るとこんな景色が広がります。右が岩舟山、左が三毳山です。古代の景観も大きくは変わらなかったのではないでしょうか。
蛇足ながらE点もチェックしてきました。こちらも木本さんが切通しを確認され、駅路痕跡の可能性をご指摘された場所です。
近年まで使われてたようで、路面もしっかりしています。
この先で造成地となり行きどまりとなります。
とてもよく整備された里道のような姿で、駅路痕跡としてはやや迫力に欠ける感じではありました。
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ここで、このブログとしての下野国府域の駅路想定ルートをおさらいしてみましょう。
国府の位置におかまいなく最短距離で平野を横断する前期駅路の姿、国庁へ立ち寄る地域にやさしい後期駅路の姿、それぞれの性格が出ていて分かりやすいですね(笑)。
下の図はお隣、上野国の定説ルートですが、下野と相似形ですね。(小宮俊久「上野国新田郡衙と周辺の遺跡」『古代交通研究会 第18回大会資料 複合遺跡のなかの駅家』掲載図を基に作成)
両国の駅路設計者は同一であったのではないか?、と想像を巡らせております。
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ところで皆さん、常陸国の駅路痕跡をご紹介していた頃に掲載したこの図、覚えておられますか?
常陸国風土記に存在が見える下野ー常陸連絡路。この西への延長線はどうなっているのでしょうか?
私の説をご披露する前に、専門家の説をご覧下さい。(木本雅康 1997年「古代伝路の復元と問題点」『古代交通研究第7号』)
そして私の結論はこちらです。 痕跡も遺構もなく、詳細なルートは不明ですが、いずれにせよ下野薬師寺周辺でY字交差点を作り、東山道本路へ接続していたと想像されます。
連絡路が整備された背景については、当時律令国家が進めていた東北経営、いわゆる蝦夷征討があると考える研究者が多いようです。
当時、軍事・政治の中心拠点であったのは陸奥国の多賀城です。軍事行動を支える兵站路として、常陸国を横断後に東海道と合流し太平洋岸で船に乗り換える海路があったのであろう、と考えられています。
そして船団を整える基地となったと推定されているのが、ここ常陸国の平津駅家です。
天然の良港であったであろうことは一目瞭然です。
連絡路との位置関係はこの通り。
さらに、常陸国の駅家と河川の位置関係にフォーカスしたのがこの図です。(木本雅康 上高津貝塚ふるさと歴史の広場 「古代常陸国の駅路と内陸水運」『古代のみち -常陸を通る東海道駅路-』2013年より)
これらを踏まえると、下野薬師寺周辺を中心とする壮大なY字交差点の姿は、有名な白河の関を経て陸奥国へ入り多賀城へ北上する本路と、常陸国への連絡路が等しく重要であったことを意味しているようにも感じます。
少なくとも、国府に寄らずにひたすら直進する奈良時代の前期東山道が、多賀城へ向かう軍事道路としての性格を色濃く持っていたことは、議論の余地がないように思われます。
以上、長文にお付き合い頂きありがとうございました!