龍角寺切通しから出発し、常陸国への渡海点を地形から探ってきた本シリーズも、ついに最終回です。今回はアングルを変え、微地形から渡海点を探ってみましょう!
kashmir3Dで東京低地用の色分けを使うと、標高1m前後の低地が紺色に染まり、香取内海として浮かび上がってきます。
当時の陸地と水域との境目、つまり汀線は、どれくらいの標高だったのでしょうか。
参考に、常陸国の平津駅(大洗町平戸)をご覧ください。水色の微高地に船着き場があり、駅家の施設本体は台地上にあったと考えられています。
標高は、微高地で3m強、水面で1~1.5mとなっています。では、この間を古代の汀線と考えてよいのでしょうか。当時の国際港だった難波津、住吉津と比較してみましょう。
メジャーリーグと草野球を比較したような格の違いはありますが、汀線の標高、または港津の標高については、ほぼ一致しています。
さて、この基準を香取内海に当てはめると、渡海点の駅家(船着き場)の比定地は、いずれも港津の好適地だったといえそうです。下図をご覧下さい。
仮説・渡河点①へ続く「白鳳道ふれあいの道」は、残念ながら奈良時代の駅路痕跡ではない、と前回、結論しました。となると、仮説・渡海点②の荒海説が消去法で残ります。
もう一つ、②が優位な点があります。
平安時代末、平将門が活躍したころを復元した下の地図をご覧ください。(鈴木哲雄 2012年『平将門と東国武士団』より)
香取内海に枝のように東に突き出している土地が描かれています。これは自然堤防の連なりで、当時は低湿地の葦原だったようです。現在でも標高3mほどの微高地として残っています。冒頭の3D地図でも水色の線として描かれています。
研究者によっては、古代には、①から榎浦津へ向かうには葦原を迂回しなければならず、直線距離での②への優位性はない、とされています。
微地形に着目すると、港津としては、仮説・渡河点②、つまり、荒海駅が有力といえそうです。
実は、心の師・近江俊秀氏は、荒海駅渡海説でした。古代埴生郡山方郷の中心地である成田市上町周辺に山方駅を比定し、その先で、香取神社への道と分岐するルートを想定されています。
現時点、当時の駅路として、最も可能性が高いのは、この渡海ルートのようです。