現地レポート

下総国の古代駅路 ⑥古墳と寺と道。残されたモニュメントが語るもの

全国最大級の方墳「岩屋古墳」と、東日本最古級の寺院「龍角寺」———。

二つのモニュメントの存在は、一帯を治めていた豪族首長の勢力の大きさを象徴して余りあるところです。これに加え、埴生郡家跡とされる大畑Ⅰ遺跡が近くで見つかっており、首長は律令国家時代になっても、地方官である郡司となって力を保ったと考えられています。

でも、最大・最古と書かれてもピンと来ませんよね(笑)。

正直、私もそうでした。岩屋古墳を見るまでは。一辺78mと掛け値なく巨大で、墳丘の大きさだけで比べれば、あの蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の基壇一辺51mを大きく上回ります。前方後円墳が築造されなくなって以後の終末期の方墳としては、天皇陵級のサイズです。

どうやら特異なエリアであったらしい、というイメージは掴んでいただけたでしょうか? 

さて、このブログではダメ押しに、もう一つのモニュメントの存在を指摘したいと思います。全てを繋ぐ新しいルートとして、丘を削り谷を渡る大工事が施された道路「龍角寺旧参道」(青線)です。中近世では参道として使われましたが、古代においては駅路と連絡する官道(伝路)であったと考えます。

龍角寺エリア俯瞰

既にご紹介した龍角寺切通しだけが根拠ではありません。ルート途中に散在する人工池に注目下さい。例えば、坂田ヶ池はこんな地形です。なお、明治初めの迅速測図にももちろん見えます。

坂田が池 3D
坂田ケ池の築堤痕跡

坂田ヶ池の西には亀の子池もあり、同じような地形であることがお分かりいただけると思います。

亀の子池3D
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谷を横断して道路を敷設するのと同時に、土橋状に盛土し築堤したものと考えられます。農業用水を確保するための溜池であり、同様の地形は各地の駅路痕跡で見られます。つまり、“古代のハイウェー”たる駅路なみの規格で作られた特別な道路であったということになります。

在地の首長→郡司は、有力なだけでなく、どうやらかなりの新しいモノ好きだったようですね(笑)。各時代の最先端の構築物を、この地にモニュメントとして打ち立てていた訳です。

蛇足ながら、このエリアの古道といえば、龍角寺古墳群を縫って走る道も想定されます。早稲田大学が作成された図に、古道ルートを書き込みました。緑線がそれにあたります。

早大作成の龍角寺古墳地図

郡家跡とされる大畑Ⅰ遺跡の建物群が、北から西へ60度ほど傾いた軸線を持っているため、同様の傾きを持つ緑線の古道が官道(伝路)の走行方向に合わせたのではないか、とお考えの専門家もおられます。

同様の例は、私も豊前国大ノ瀬官衙遺跡で拝見しています。ただ、今回の場合、古墳群の隙間が狭く、6m前後の伝路を通すにはかなり小刻みに蛇行させる必要があり、不自然です。また、坂田ヶ池の堤防道路がなかった時代は、印旛沼東岸の台地縁辺がルートだったはずです。

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もう一つ、状況証拠があります。

早稲田大の地図をもう一度ご覧下さい。青線=方墳群、緑線=円墳・前方後円墳群というエリア分けが明瞭ですよね。時代変遷を意味していると思われます。なお、龍角寺切通し横の二つの“円墳”ですが、多分、方墳です。kashmir3Dで地形を強調すると浮かび上がってきます。

109号墳と110号墳

ということで、このブログでは、緑の道を古墳時代に遡る生活道路ではないか、と推理するものです。

なお、途中から龍角寺へ真っ直ぐに北上する「白鳳道」(赤線)が分岐します。これを寺の創建時に同時に作られた参道とする考えには賛成です。ただし、道幅は広くなく、投下された土木量も限定的ですので、官道ではなさそうです。

IMG_0656

創建時の7世紀第3四半期にはすでに大和三道があったでしょうから、正方位直線道の流れをいち早く取り入れたのではないでしょうか? さすが、筋金入りの新らしいモノ好きです(笑)。

それにしても、都の最先端モードを、東国でいち早く取り入れ続けた首長→郡司とは、どんな人達だったのでしょうか。半可通の推理はここまでとし、本当に最終回といたしたく。

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