615年築造で日本最古の古代山城、城壁の延長約3.9km、40棟以上の礎石建物群、防人500人以上が駐屯―――――。数字を拾って見るだけで、ただならぬ歴史と規模を感じさせられるのが基肄城です。
半可通な前口上は省略して(笑)、現代に残る遺構をぐるりと巡ってみましょう。
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まずは、南門跡に残る水門です。現代でいえば砂防ダムのように見えますが、本来は谷を塞いで造られた石塁です。沢水を流し出すために、排水溝が設けられています。現道の位置に本来は門があったようです。
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これまでに4つの城門が確認されており、これは東北門跡です。小ぢんまりとしていて、“勝手口”のような雰囲気。半ば埋まってしまっていますが、門柱が据えられた礎石が残っています。
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次に、大宰府へ向く“北の玄関口”、北帝門跡です。二重の城壁があったとも考えられています。
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いきなり城門三連発で失礼しました(笑)。気分を変えて、明るい稜線上に出ましょう。土塁が尾根上を巡っているようがよく分かります。
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礎石群を回ってみましょう。まず、階段状に削平された丸尾礎石群。次に、炭化米が出土したという米倉跡。最後に、10間×3間の最大規模の建物と見られる大礎石群です。布目瓦が散布している場所もあり、瓦葺の立派な建物もあったようです。
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最後に、城の南東側麓に位置し、一体の施設として語られるべき、とうれぎ土塁と関屋土塁をご紹介しましょう。まずは、とても分かりやすい現地案内板の説明図をご覧下さい。
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大宰府方面へ向かう主要道を扼するために、谷を塞いで作られた城壁で、「小水城」とも呼ばれています。本家の水城より先に登場してしまいました(笑)。とうれぎ土塁では、一部の地形が保存されています。また、両土塁の結節点であった千塔山丘陵は八幡神社の杜として残っています。
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この主要道は、城の東麓を抜ける「城の山道」と呼ばれる官道で、これに繋がるのではないかともされる遺構も検出されています。
城郭遺構だけでも必見の基肄城ですが、周辺の駅路や小水城と併せて捉え直すと、「大宰府羅城」南部の中核拠点としての重要性が明らかとなります。正直に言えば、そのスケール感にシビレます!(笑)