東山道は信濃国から碓氷坂を越えて上野国に入り、現在の安中市を通り、高崎市のある関東平野北西部に抜けていました。
高崎市に入ってからのルートは概略、このように推定されています。12の□が国府です。
(那須烏山市教育委員会『長者ヶ平官衙遺跡附東山道跡国史跡指定5周年記念講演会 古代の道路と駅家』2014年より、一部拡大)
5から11までの番号がふられた遺跡からは、駅路遺構が見つかっています。
側溝心々間距離は6mから11m、走行方向はN-62°-EからN-70°-Eと、かなりバラつきがあり、8から11世紀の後期駅路と推定されています。
wide&straightな前期駅路と比べるとアバウドな設計に見えてしまいますが、これをご覧いただくとイメージが変わると思います。3D地図に5mごとの等高線を入れてあります。
赤線が私の引いた推定ルートですが、榛名山麓の傾斜地を等高線をまたがず並行に走っていることが分かります。
設計者がアップダウンを減らすことを重視したのが見て取れますね。
さて、設計者の意図という点で注目したのが、下の米軍航空写真のA地点。上小塙稲荷山古墳(かみこばないなりやまこふん)です。
なお、米軍航空写真のB、C、D各地点では駅路遺構が確認されています。直線地割が明瞭ですね。
直径約50mの円墳で、平地部にポツンと存在し、周囲から大変目立ちます。この現道は推定ルート上にあります。
もう言わんとしていることはご想像がついたと思います(笑)。これ、設計時に測量点になった“ターゲット古墳”に間違いありません。
推定ラインを南西へ3㎞弱延長した丘陵上から見たところ。よく目立ちます。
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さて、問題はこの先、烏川右岸にある丘陵をどう越えたか、です。
いつものバイブル『地図でみる東日本の古代』だとこんな感じで、未詳ルート扱いです。
こうなると俄然ファイトが湧いてきます。微地形に痕跡はないか、と探してみると・・・。あれ?
あれぇ・・・、もしかして切り通し?
烏川氾濫原から丘陵上へ24mの標高差を一気に登っているように見えますよね。
当然、現地踏査してきました! ですが・・・。あれ?
あれれ?
残念ながら、九十九折の車道に作り替えられておりました。Google earthで俯瞰するとこんな状態です。
米軍航空写真にもはっきりと見えていますので、近代化以前に存在したのは間違いありません。
結論としては、よく分かりません(苦笑)。ただ、400m強で丘陵東端部となりますから、わざわざここに切り通しを作る必然性は薄いはず。
前期駅路ならまだしもですが。この後期駅路は上で見たように、アップダウンをなくすことに意を尽くしていますから、矛盾を感じます。
ということで、私の推定ルートはこうなります。
烏川を直角に渡河し、丘陵東端部に上陸、そのまま平地を進み、上野国一社八幡宮の南方で前期駅路と合流します。
これが一番、無理のないルートと思いますが、駅路設計者の方は、どうお考えだったのでしょうか?(笑)。
台地末端部を渡河点とする例は、いくつか見たことがあるのですが・・・。
今回はこれまで。