中世の用水路跡と結論された帯状地割
町北遺跡の成果をもって、関連性が改めて否定された遺跡もあります。
南西約600mのエリアでは、米軍航空写真で幅約15mの帯状地割が明瞭で、かつて「推定東山道地条帯痕跡」と呼ばれていました。付近は野後(のじり)駅家の推定地ともされてきました。
現地を訪ねてみると、この通り確かに立派な”駅路痕跡”に見えます。
伊勢崎市の例と雰囲気が似ていますね。
駅路と駅家の遺構を狙って度々、発掘調査が行われてきました。上野尻、土井、並木の三遺跡です。ところが、残念ながらいずれも”空振り”に終わりました。
ただし、上野尻遺跡では「中世の大溝」が見つかりました。安中城方向へ伸びる用水路と推定されています。
あの故・木下良先生もこの時点で、「このような地条が必ずしも道路跡とは限らないことに留意する必要がある」(2009『事典 日本古代の道と駅』)と持論を訂正されています。
町北遺跡でも中世の溝跡が
ところが今回、町北遺跡でも中世の大きな溝が見つかりました!
ブログ主は一時、上野尻遺跡の溝に繋がれば道路遺構として再評価されるかも?!、と色めき立ちましたが、よく見れば構造が全く異なりました。荒っぽい作りですね。
駅路の側溝が掘り下げられて用水として後世に残る例はよくあり、県内でも伊勢崎市の牛堀遺跡で知られています。でも、今回は違ったようです。
とはいえ、町北遺跡の東山道ラインはこの辺も通過しているはずなのですが・・・?
念のためラインを地図上に落としてみると。。。惜しい!ギリギリでトレンチにかからなかったようです。
なお、土井、並木遺跡も実際の発掘範囲は限定的で、東山道ラインを捉えられませんでした。
遺跡群の方位と関連性
最後に下の俯瞰図で、全体的な位置関係をご確認下さい。
碓氷郡家?と東山道ラインの方位がほぼ正対(10°程度のズレあり)しているのに対し、中世の用水路ルート(赤線)は関連性を感じられません。
なお、図の東端にある地尻遺跡でも用水路の延長とみられる「中世の大溝」が見つかっていて、豪族居館の堀が巡っていたとも推測されています。
ブログ主の憶測は外れでした。今回は失敗と検証の経緯をありのまま記事化しました。
おわり
【ご参考】中世の用水路「女堀(おんなぼり)」
「中世の用水路」が現代に帯状地割となって残ることがあるのだろうか?🧐
釈然としないまま類似事例を探したところ、大変あっさりと立派な事例にぶつかりました。前橋市・伊勢崎市にまたがる「女堀(おんなぼり)」です。下図は伊勢崎市さんのHPより。
赤城山南麓を約13㎞にわたって横断する灌漑用水路で、平安時代後期に作られたと推定されています。数か所が国史跡に指定。ただし、なぜか未完成で通水した形跡がないそうです。
深入りは避けますが、ご興味のある方は伊勢崎市さんのHPをご覧ください。
さて、肝心の帯状地割は? 60年代航空写真で見ると大変クッキリと残っていますね!
直線地割を見るとなんでも駅路痕跡に結び付けてしまいがちなブログ主。今後はより慎重にならねばならぬと自戒したのでした。