源義家「吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな」(千載和歌集)
義家が奥州征討の際、勿来関(なこそのせき)で読んだとされている有名な歌です。「来るなかれ」という名前の関なのだから風も吹かなければいいのに、山桜の花が道を塞ぐばかりに散っているよ。というような意味だそうです。
福島県いわき市には「勿来関跡」として公園が整備されています。
騎乗姿の銅像はもちろん義家です。
ところがですよ、古代東海道はここを通っていないようなのです!
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弘仁3年(812年)に海側から内陸側へルートが付け替えられたんだから、平安末の義家が通らないのはあたりまえじゃん!、とツッコンで頂いたあなた! このブログの常連さんですね(笑)。
付け替え後も海側ルートが街道として使い続けられたのは、藻島駅の記事でご紹介しました。ですから、義家が通っていてもおかしくはないのです。
また、ルート南方の日立市石名坂町では、同時代に通りかかったとされる西行法師の歌碑が立てられています。
「世の人の ねざめせよとて 千鳥鳴く 名坂の里の 近き浜辺に」
ですから、ルート付け替え問題は無事クリアと考えてよいようです。
ところが、海側ルートも関跡を通っていないようなのです!
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いつもの県教委説を参考に引いた推定ルートは下図の通りです。海沿いには道路敷設は不可能として山側を通過しています。(茨城県教育委員会『古代東海道と古代の道』2015年)
木下良氏のお考えも同様です。勿来関の代わりに菊多関という記載がありますが、これは後述します。
木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館 2009年
高台に上る場所には、斜行する切通し道が残っています。まずは、3D地図でどうぞ。
クッキリと凹道が見えますね! 勇んで現地を歩いてみると・・・
かなり荒れてV字浸食が進んでいます。中ほどから下を振り返ったところです。さらに、上まで上ると・・・
やはり立浪型に近い荒れ方ですね。壁面を丹念にチェックしましたが、三島市の平安鎌倉古道のような多層構造も見えません。使用されていたころの幅も一間(約1.8m)ほどでしょう。残念ですが、そんなに古くない杣道のようで、古代東海道には見えませんでした。
現時点では、常陸-陸奥(石城)の国境を奈良時代の東海道がどこで越えたのかは不明、というのがこのブログの結論です。
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では、古代の関とはどのような地形に作られたものなのでしょうか?
福島県白河市の白河関を3D地図でご覧下さい。発掘調査の結果、土塁・空堀・柵を巡らせた古代の防衛遺構が見つかり、国史跡に指定されています。なお、円形に見える堀は中世の城館跡だそう。
次に、大宝律令にも規定された畿内を守るための三関(さんげん)の推定地をご覧ください。
木下良『事典 日本古代の道と駅』吉川弘文館 2009年
愛発関(福井県敦賀市)、鈴鹿関(三重県亀山市)、不破関(岐阜県関ケ原町)の順です。縮尺は全て同じです。
最後の不破関については、発掘調査が進み当時の施設が復元されています。町の歴史民俗資料館がGoogle earth用の3Dデータを提供していますので、それを使って画像化してみました。
東山道を施設内に取り込んでいる様子がよく分かります。規模的には郡衙並みですね。ちなみにここ、関ケ原合戦の古戦場のど真ん中です。俯瞰してみると地形上の重要性がよく分かります。
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これら古代関と比較して、「勿来関跡」の地形を確認しましょう。意地悪なようですが(苦笑)。
まず、狭い尾根上であり、防衛施設を設ける敷地がありません。駅路のような往還路を通すこと自体、困難であったと思われ、通ったとしても、先には鮫川・蛭田川の氾濫原が広がり西に迂回を余儀なくされます。
結論としては、ここに古代関があったとは考えられません。
では、地元研究者の皆さんは、どこに勿来関があったと考えられているのでしょうか?
どうやら、
①蝦夷への防備として多賀城北方(宮城県利府町)に設けられていた「そうの関/なこその関」が、
②後世、東海道を押さえる「菊多関」と同一視され、
③歌枕の「勿来関」が生まれた・・・
というのが現時点での有力な考え方のようです。(菅原文也「菊多剗と勿来関の検討」『いわき地方史研究第45号』2008年、菅原伸一『蝦夷と「なこその関」2014年』など)
なお、利府町の伝承地には、名古曽、惣ノ関北、惣ノ関南などの地名が残っています。ただし、東山道は栖谷駅から北西へ向かっていたと考えられているようです(『地図でみる東日本の古代』)。
下図をご参照ください。
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とはいえ、歌枕として数々の和歌に詠まれてきた「勿来関」に想いを馳せるのに、現時点で最もふさわしい場所は、冒頭の「勿来関跡」に違いありません。