直線性にこだわる駅路であっても、古墳は必ず避けて通ります。律令国家の時代であっても、古墳を破壊することはタブーであったのでしょう。しかし、郡家付属の寺院や豪族の氏寺を避けたという話は聞いたことがありません。もしかしたら、龍角寺はその数少ない例であるかもしれません。
龍角寺の創建時伽藍の範囲を3D地図上に再現してみました。早稲田大学による測量調査を参考に、同じ下総国の結城廃寺の伽藍範囲を当てはめました。どちらも本尊を納める金堂と塔が東西に並ぶ法起寺式配置と考えられています。
伽藍だけで台地上はいっぱいな感じですよね。周辺の下総台地は枝状に谷の開析が進み、平地は決して広くありません。
発掘調査で明らかになった結城廃寺の寺域は、180m×250mと広大です。龍角寺ではとても方形の敷地は確保できませんから、施設を周囲に分散させていたはずです。実際、厨の遺跡は西側の谷から見つかっています。周辺の遺跡分布はいつもの「ちば情報マップ」マップでは下の通りです。
前回までで、龍角寺切通しを通過する旧参道を、官道を踏襲したものと推定しました。旧参道は台地上で方向を北へ変え、古代の伽藍にぶつかります。この先、どんなルートを辿ったのでしょうか?
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常陸国の首駅・榎浦津へ香取内海を渡海する下総国側の駅は、荒海駅か山方駅のどちらかであったと考えられています。まずは、遺称地名が残り有力とされてきた荒海説からご覧ください。
次に、木下良氏の山方説です。一般に成田市南部と考えられてきましたが、より榎浦津に近い栄町興津周辺とお考えです(2009年『事典日本古代の道と駅』) 。
また、龍角寺からほぼ真南に直線的に伸びる旧参道と「白鳳道路」を、駅路痕跡とされているようです(2012年『地図でみる東日本の古代』)。
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全国に駅路網が敷設された時期は、7世紀第4四半期の天武朝というのが、心の師・近江俊秀氏の見解です。一方で、出土瓦の編年から龍角寺の創建は、7世紀第3四半期とされています。つまり、寺が先で道が後、ということです。
ですから、山方説をとれば、駅路は先行して建立されていた龍角寺の東側をギリギリで抜けるよう敷設され、北へ向かったという結論となります。イメージとしては下図の通りです。
かなり無理無理な感じですが、現地に痕跡は残されているのでしょうか? 次回、実踏します。