古墳の被葬者が判明することは極めて稀です。飛鳥を訪ねて改めて認識しました。だからこそ、発掘調査で手掛かりが見つかると、マスコミを巻き込んで大フィーバーが起きるのでしょう。一昨年に、都塚古墳が蘇我稲目の墓か?!と取り沙汰されたのも、そうした現象だったようです。
天皇陵でさえ、まず確実と専門家が一致するのは、天武・持統天皇陵だけだそう。鎌倉時代の盗掘録に、石室に漆塗木棺と骨壺の金銅製容器があり、墳丘が八角で五段を呈していたと記されていたため。持統天皇は火葬された初の天皇なのです。
この八角墳というかたち、舒明以降の天皇陵で意識的に採用されていた可能性が高いとされています。案内板にあった下図の通り、まるでUFO! レベルが低くですみません(笑)。裏に回ると墳丘が見えますが、写真の通り小ぶりな円墳にしか見えませんね。
駅路と条理地割の整備は「天武朝の列島改造だった」というのは、心の師・近江俊秀氏がよく使われるフレーズ。そのお墓に参り、これまでの凹道探索の成果をご報告したいというのが、今回の旅の目的の一つでした(笑)。ステキな趣味を与えて頂き感謝!
なお、この古墳、藤原京のメインストリート・朱雀大路の延長線上にあるのも有名です。藤原京は日本最初の唐風都城で、天武期から建設がスタートし持統期に遷都、奈良時代まで日本の中心でした。朱雀大路の跡から北を眺めたところです。後ろにあるのは、大和三山の一つ耳成山。
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今回、ここからが本論です。では、都塚古墳は蘇我稲目の墓で決まりなのか?! まずは、位置を3D地図でご覧ください。俯瞰で見ると飛鳥の中での位置が、アップで見ると馬子の墓といわれる石舞台古墳との関係がよくわかります。ちなみに、二つの古墳の石室はそろって南西を向いています。
ここで告白します。石舞台古墳って、石室以外の墳丘が全く残っていないと思っていました。素人はこんなもんです(苦笑)。まさか、ただの公園だと思っていた周囲の土地約50m四方まで古墳だったとは。よく見ると、四隅に吹石も残っています。
都塚古墳も同じ。なんであんなに小さな古墳が話題になるのかと思っていましたが、一辺40m強の方墳でありました。
さて、私は古道地形マニアで門外漢です。ですから、古墳の編年の問題は言及を差し控えます。発表されている内容は明日香村サイトのこちらで。
でも、一言だけ(笑)。「築造は6世紀後半頃」という結論については、様々な異論が出ています。石棺はまだしも、石室の構造はもっと新しいものである、とか、出土土器は7世紀のもの、という点に注目する専門家もおられるようです。稲目は570年没とされています。
さてさて、門外漢としてとても気になるのは、稲目の屋敷、つまり蘇我氏の拠点は当時、大軽町の辺りだったはずなのではないか?というポイント。馬子の屋敷は石舞台古墳のある島荘にあり、それがが馬子のものと推定される決め手の一つとなりました。馬子の代になってここに進出したと考えらています。
思い出して下さい、大軽町といえば、近くにあるのは、①で取り上げた五条野丸山古墳です。ということで、私は近江説に最も魅力を感じるということに変わりない訳です。