古代山城とは?
「古代山城ってなに?、なんのために作られたの?」という疑問にお答えするのが、実は大変困難なのです😓
膨大な研究史が積み上がりながら、今もなお議論が決着していません。この辺の事情は近江俊秀さんの著書をご参照下さい。
半可通な説明は控え、ここでは下のような大まかな前提でお話したいと思います。
「白村江の敗戦後(663年)、唐・新羅連合軍の侵攻に備え、西日本に古代山城や防人、烽火などを配した防衛ラインが築かれました。
古代山城においては、渡来人がもたらした築城技術が導入されていました。
唐と新羅の戦争(670年)がはじまり日本侵攻の恐れが遠のいた後も築城は続けられました。
近年では、築城目的には段階的な変遷があり国防から地域支配へと移っていった説が有力となりつつあります。
奈良時代に入ると一部を除き廃城となりました」
鬼ノ城とは?
鬼ノ城は岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん、標高397m)に築かれた『日本書紀』に記載のない古代山城です。
南に下がる斜面部に城壁約2.8㎞が巡らされています。3Ⅾ地図でみると城内の地形が大きく改変されていることが分かります。
築城目的は一般的に、吉備地域が北九州から大和に至る防衛ラインの中で陸海交通の要衝であったため、と考えられているようです。
ところが、実際のところ、鬼ノ城は当時の海岸線から見ても遥か内陸部にあり、また、山陽道駅路からも7㎞以上離れています。陸海交通を押さえるための軍事施設としては相応しくない位置にあります。
また、発掘調査により、築城は7世紀第4四半期(676~700年)を中心とする時期と推定されています。この頃には唐は新羅との戦争に敗れて半島から撤退し、日本への脅威は遠のいていました。
となると、国防は築城目的になりえません。後に備中国府が置かれることになる、かつての大国・吉備の中心部を見下ろす占地にこそ意味があったのではないか、ということになります。
つまり、国府に先行した吉備地域支配の拠点ではなかったか?、という見方です。
いずれにせよ、軍事施設としての役割は短く、8世紀初頭ごろには礎石建物群を中心とした備蓄倉庫へと変わっていったと考えられています。(岡山県古代吉備文化財センター『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告236 史跡鬼城山2「甦る!古代吉備の国~謎の鬼ノ城」城内確認調査』2014年による)
城内をご案内!
蘊蓄が長くなりまてスミマセン😓。以下は写真を中心にご紹介いたします。
では、シンボル的な西門から! 古代山城の城門としては全国初の復元だったそうです。
城内から見たところです。
東北地方の古代城柵を思い出しますね。
下は古代山城でもここだけ!、という敷石です。雨水によって城壁が洗われて崩れないよう保護するためのもの、と考えられています。
そして、倉庫群の跡。
これは「屏風折れの石垣」と呼ばれる高石垣で、地形に合わせて大きく張り出し城の東側の監視が出来る守りの要、だそうです。
シンプルな南門の跡です。
駆け足でご案内しましたが、雰囲気はお伝えできましたでしょうか?
古代山城について詳しくお知りになりたい方はこちらをおススメします。
なお、大宰府の古代山城群については過去記事をご参照下さい。
終わり