石岡駅から水戸方面へ約4km進んだ「開拓踏切」の東に、謎の切り通し状地形があります。案内板では、「推定約1200年前に構築された古代官道(駅路)の残存遺跡の一部である」としています。まずは写真をご覧下さい。
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![IMG_0054](https://farm8.staticflickr.com/7619/16342114604_6458bf5e32_z.jpg)
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![IMG_0044](https://farm8.staticflickr.com/7635/17010522936_9a3e282f4f_z.jpg)
なんでこれが謎なの?、とご不審と思います。実は、定説的な想定ルート(※資料編ご参照)はこの西隣を通過しており、駅路痕跡らしい浅く広いホリワリが存在するのです。どっちが本物?!(笑)
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![IMG_0050](https://farm8.staticflickr.com/7628/16778275609_c0950fe927_z.jpg)
まずは、ファクトをおさらいしてみましょう。お馴染み、明治期初めの迅速測図では、ほぼ想定ルート(青線)に沿った道だけが見えます。緑線は切り通し状地形。
![開拓踏切_明治初期迅速測図](https://farm9.staticflickr.com/8744/16376857464_661ba65bab.jpg)
ところが、明治36年(1903年)測量図で見ると、どうやら切り通し状地形も道として使われていたようです。常磐線を敷設する際に道の付け替えがあったのかも。
![開拓踏切_明治36年測量地図](https://farm8.staticflickr.com/7611/16999248245_245c47a856.jpg)
さらに、昭和15年(1940年)修正版では、切り通し状地形の方の道だけが描かれています。
![開拓踏切_昭和15年修正地図](https://farm8.staticflickr.com/7633/16811515148_5d8c923e35.jpg)
1946年の米軍空撮写真では、現道と同じ場所に道筋が見えますが、切り通し状地形の方は不明瞭です。
![USA-M84-A-6-124_19460325_小美玉市](https://farm8.staticflickr.com/7651/16781181107_8363639c1b.jpg)
最後に立体地形図をご覧下さい。複雑な起伏が見えます。
![謎の切り通し状地形_羽鳥](https://farm9.staticflickr.com/8722/16379189293_a508db8af6_z.jpg)
なお、現地探索では、五万堀古道で出会った他所の切り通し状痕跡と比べ、違和感を持ちました。特に、平らな底面が河原近くで大きく広がっている一方、頂上付近では徒歩道レベルまで狭まっているのが気になります。
以上の通り、謎は深まるばかりです。なにかご存知の方、いらっしゃいませんか?
◎参考資料
現地案内板より
![IMG_0052](https://farm8.staticflickr.com/7595/17022224852_967cd5ef65_n.jpg)
木下氏による想定ルート。Aは国府、Kは安侯駅想定値、Eが開拓踏切。(木下良 2013年『日本古代道路の復元的研究』)