中原街道は、江戸と現在の平塚市中原を繋ぐ、東海道の脇往還でした。
近世に整備され、家康が駿府と往復する際や、鷹狩りの際に使ったことで知られています。
定規で引いたような直線性を持ち、相模国から武蔵国、下総国を最短距離で結ぶルートでもあります。
このため、故・木下良氏は、延喜式以前の古代東海道を踏襲したものと推定されています。 (下図は、田尾誠敏・荒井秀規『古代神奈川の道と交通』2017年に加筆)
しかしながら、交通量の多い現道であるが故、発掘調査も進んでおらず、遺構確認はされていません。
一方で、中世に後北条氏が整備した際、狼煙を上げて、それを目印に直線的に道を切り開いたとも伝えられています。
ですから、現時点では、中原街道=古代東海道説は、あくまで仮説ということになります。
ところがどうやら、その“証拠”を見つけてしまったようなのです。ポイントは上図の赤丸です。
まずは、航空レーザー測量に基づいた地理院地図(電子国土Web)の3D地図をご覧ください。
ここは綾瀬市の厚木飛行場南。蓼川が台地に刻んだ谷の両端に、明瞭な切り通し地形が見えます。
近世の中原街道の痕跡で、明治39年測図の地図ではこう描かれています。
さらに、3D地図へ落としたのがこれです。
全く偶然に切り通しが残っていることに気付いてしまい、大興奮です(笑)。
さっそく、現踏してみました。
まずは、西側の切り通し。
次に、東側の切り通しです。
西側で気付いたことがあります。
現状は、壁が切り立っており、かなり新しい切り通しであることが明白です。
ところが、木の根の位置を見ると、どうやら元々は一段上に道路面があったようなのです。
そうだと考えると、上幅20m近くの幅広く緩やかな切り通しが、先行して存在したことになります。
このサイズ、佇まいは、古代道路のそれです。
参考に、茨城県高萩市石滝の東海道駅路の切り通し痕跡はこんな感じです。
古代東海道がベースであったと仮定すると、東側切り通しにも気になる地形があります。
中原街道は台地上の上る際、くの字に屈曲しています。ところが、そのまま直線を伸ばした先に、謎の窪地が存在するのです。
これって、切り通し痕跡なのでは?
最初の3D地図上に想定ルートを描くと、こうなります。
うーん、怪しい(笑)。ただし、現地の様子は、写真左奥のような崖。
蚊の猛攻を受け、地層までチェックすることは出来ませんでした。
1947年の米軍航空写真を見ると、なんとなく直線的な地割が見えますが、なんともいえませんね。
状況証拠になるもしれないのがここの地名、「新道(しんみち)」。
中原街道沿いでは他にも、古道を直線道化した際につけたと思しき、「新道」地名が存在します。
ここの場合は、直線的だった古道を、緩傾斜化などの理由で曲線化し、新道と名付けたのかもしれませんね。
ということで、決定打に欠けるのですが、現状地形はwide&straightな古代道路の痕跡であっても不思議ではありません。
中原街道の旧ルートを、Google earthで見るとこのとおり。
ルートだけを見ると、古代道路跡といっても違和感ありませんよね。
もう少し涼しい季節になりましたら、もう一度、現地をじっくり見分したいと思います。