神亀元年(724)に新国府の多賀城が完成し、新たに導入された鎮兵制を統括する鎮守府が置かれました。
律令上の兵制は軍団制で、当該国の公民から徴発され年6交代で勤務していました。
一軍団1,000人が定員ですから多いように見えますが、実際には六分の一ですから有事の際には戦力不足でした。
大規模な蝦夷反乱の続発を受けて、令外の制度である鎮兵制を導入し、東国の軍団兵から選抜した専門兵を常備することとなりました。
さらに、石城・石背国を再統合することなどによる陸奥国の体制強化で、蝦夷支配の「神亀元年体制」が構築されました。
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これらが奏功したのか蝦夷反乱が一時は落ち着き、天然痘の流行や大仏、国分寺の建立などの流れの中で、東北情勢は一段落します。
流れが変わったのが、天平宝字元年(757)のこと。藤原仲麻呂が専権を確立すると、
鎮兵を3000人規模で復活し、積極策に転じます。
755年の安史の乱で唐の衰退が始まり、唐と唐を後ろ盾にした新羅の圧力が弱まったことで、東国の軍事力を征夷に投入することが可能となりました。東国防人も廃止されました。
四男朝狩が陸奥守となり、2年後、按察使・鎮守府将軍を兼務することになります。
朝狩は多賀城の改修を進め、天平宝字6年に多賀城碑を建立しました。
他にも、陸奥国に桃生城、今治城、出羽国に雄勝城が次々と完成し、柵戸(きのへ)を移民させた建軍が進んでいきます。
こうした動きは蝦夷との間に摩擦を生んでいくことになります。
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そしてついに宝亀5年(774)、光仁天皇が征夷を許可。この動きを察知していたと思われる海道蝦夷が直後に蜂起して、桃生城を襲撃。ついに38年戦争がはじまります。
宝亀11年(780)には蝦夷系の豪族、今治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が反乱を起こし、多賀城も焼失します。
この情勢を受け、桓武天皇は延暦8年(789)から、三度に渡って最大10万人の大軍を送り込みます。
延暦20年(801)からの第三次征討では、征夷大将軍坂上田村麻呂に蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)、母礼(もれ)が降伏し、38年戦争もヤマ場を越えます。
翌年に、胆沢城が完成。その翌年には志波城が完成しますが、度重なる水害などによって光仁3年(812)に徳丹城へ移転しました。
概略は、いつもの『地図でみる東日本の古代』に掲載のこの図をご覧下さい。
いやぁ、長い前振りですみません(笑)。でも、これでようやく、東山道駅路の終点が城柵であった理由がお分かり頂けたのではないでしょうか?(下図は木下良_2009年『事典日本古代の道と駅』より)
東山道は律令国家の征夷における兵站路の役割を担っていました。それをヒト、モノで支えた坂東諸国との連絡路であったとも言えます。また、宮都との通信ルートでもありました。
また、38年戦争終結まで使用された東海道のルートも同様の役割を担っていたのでしょう。
この軍事的性格が、坂東諸国における東山道のwide&straightな姿に影響していると容易に想像されます。
でも、このお話はまた別の機会に!
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まず、胆沢城から歩いてみましょう! 概観はこの通り。
これからは現地看板&写真でグラフっぽく!(笑)
◆次は陸奥国最北、最大の城柵、志波城です。
まずは、パンフレット盛岡市教育委員会『志波上城址』に比較図をご覧ください。
多賀城をしのぐサイズであり、この当時まで律令国家はさらに版図を拡大する意図があったことを忍ばせます。
GoogleEarthで俯瞰してみましょう。
次に現地の写真を。と思ったらデータ量が大きすぎるようで、二つに分割します。