鈴鹿関とは?
東海道に設けられた鈴鹿関は、奈良時代に東山道の不破関(ふわのせき)、北陸道の愛発関(あらちのせき)とともに三関(さんげん)とされた律令国家が最も重視した交通管理施設です。
天皇崩御や反乱など宮都で異変が起こった際には封鎖され、謀反人などが東国へ出られないようにしました。固関(こげん)といいます。
壬申の乱での大海人皇子脱出行の反省ですかね?😓
壬申紀で「鈴鹿関司」が見えますので飛鳥時代には関が存在したと推定されていますが、築地塀で囲まれさながら”要塞”のような姿となったのは奈良時代中頃と考えられています。
発掘調査の結果、鈴鹿市では、関町北方の観音山から南方の城山を経て鈴鹿川に至る総延長約650メートルの築地塀があったと推定しています。
先行して調査が進んだ東山道の不破関については過去記事をご覧ください。
築地塀の発掘現場
発掘調査現場を巡ってみました。
まずは西側の第1次調査地から。現在、シートでカバーがかけらられていますが、その脇で痕跡断面を見ることができます。指で叩いでみると固く締まっていることが分かります。
次に、第9次2区調査地では、築地塀そのものは残っていなかったものの、多数の瓦が出土しました。
その西側は深い谷となっていて、地形を利用した防備となっていたのがよく分かりますね。
また、第9次1区調査地では、築地塀の断面が露出しており、版築跡が水平な縞模様として見えます。
奈良時代の東海道痕跡か?!
遺構の広がる鈴鹿市関町は、近世東海道の関宿(五十三次47番目)があったことで知られます。街並みも保存されていて散歩におススメの観光地です。
明治の地図をご覧いただくと、近世東海道は北東へ抜けています。これは平安時代の東海道ルートであり近江国で東山道に合流していました。
西に抜けて行く道は旧大和街道で、奈良時代の東海道ルートです。伊賀国を横断して平城京へ至ります。
この辺の変遷については、過去記事で解説していますので、ご覧ください。
さて、関の西側の微地形に築地塀を紫線で落としてみました。旧大和街道は図の左奥へと続いています。
注目頂きたいのが赤線。明治の地図には載っていませんが、ここを旧大和街道が通っていたと考えられています。
丘陵端部を斜行して下る直線的なその姿、古代道路に似てませんか? 百聞は一見に如かず、現地を歩いてきました。すると・・・
かなり崩落が進んでいますが、立派な道路痕跡が残っていました。壁の傾斜も至極ゆるやかであり、元々の道幅を想定すると、これが奈良時代の東海道痕跡だとしても全く違和感ありません。
さらなる全容解明へ
鈴鹿関跡は今年3月に国指定史跡となったばかりです。遺跡は関宿のある台地の広い範囲に存在していたと考えられ、今後、全容解明に向けてさらなる調査が進んでいくようです。
なんといっても奈良・平安時代の東海道が走っていた要衝地であり、鈴鹿駅家を含め交通関係遺跡の調査確認が加速することを期待いたします!