PCを使い自宅に居ながらにして古代道路の痕跡を探す「在宅探索」。お金もかからず感染症のリスクもなしに旅の気分を味わえる”歴史推理”です。今回はその実践例をご紹介いたします。
まぁ、問題は、強烈に現地に行ってみたくなることなんですけどね!😓
大和ー紀伊国境の歌枕「真土山」
「あさもよし 紀へ行く君が まつちやま 越ゆらむ今日そ 雨な降りそね」
作者不詳 (巻9-1680)
紀伊国へ旅立った「君」のことを想い、真土山の峠越えで雨が降らないでほしい、と詠んだ『万葉集』の一首です。「あさもよし」は紀伊国・人の枕詞です。麻が特産だったためだとか。
大和国と紀伊国の国境にあった「真土山(まつちやま)」は、都と地方の境界として格別に旅情を掻き立てる地であったようです。歌枕として8首が『万葉集』に詠み込まれています。
古く古墳時代から、紀ノ川河口の「紀水門(きのみなと)」はヤマト王権にとって重要な外港であり、東アジアに開かれた国際港でした。このため、奈良盆地と繋ぐ紀ノ川北岸の道路が発達していました。
近江俊秀『日本の古代道路』角川選書 2014年より
飛鳥・奈良時代になると、宮都から南海道諸国(和歌山と淡路島、四国各県)へ向かう駅路「南海道」として改めて整備されたと考えられています。
『万葉集』は奈良時代末の成立ですので、「真土山」付近には南海道が通過していたことになります。では、これを手掛かりに古代道路の痕跡を探してみましょう!
現代の真土峠は”万葉テーマパーク”
現代では、国道24号線(大和街道)の県境周辺を真土峠と呼んでいます。県境となっている落合川には「飛び越え石」(奈良県側では「神代の渡し」)という名所があり、これこそが”万葉の古道”とされています。周辺には万葉歌碑も建てられ、観光地としてきれいに整備されています。
「飛び越え石」はGoogleマップでも見ることが出来ます。
ところが、実は、真土山が具体的にどこを指すのか、すでに分からなくなってしまっているそうです。南海道ルートについての記録や伝承も残っていません。さらに、古代の国境は紀伊国側の真土山で、落合川ではなかったと考えられています。
地元の皆さんごめんなさい!🙇
では、何を手掛かりとすればよいのでしょうか?
航空写真と3Ⅾ地図から探す南海道
まずは、周辺の地形をおさらいしましょう。山地が吉野川(紀ノ川)まで突き出していて、国道24号線(大和街道)が切通しによって東西に横断しています。
古代においても地形は大きくは変わらないでしょうから、現在の国道は南海道を踏襲したものであろうと想像されます。となると、土地開発が進む前には、沿線に古道の痕跡が残っていたはずです。
ここで頼りになるのが、地理院の地図・空中写真閲覧サービスです。終戦直後に米軍が撮影した高度経済成長期前の地形を見ることが出来ます。当ブログでは「米軍航空写真」と呼んでいます。
確認すると、ありました! あやしい地形です。A地点は田圃の中の帯状窪地。B地点は切通し痕跡のように見えます。峠の出入り口となっている東西の切通しと一直線上に並んでいることも分かります。
カシミール3Ⅾで微地形を見ると、A地点はクリアですが、B地点は川岸に不定形な窪地を残すのみとなっています。開発による埋め立てでしょうか。
GoogleマップでもA地点は明瞭に残っていました。
これを3D化したものがこれです。美しい! 当ブログとしては、紛れもない南海道痕跡であると断定いたします!
B地点方面を向いてみると、なんとなく切通しの窪地が見えますね。
そういえば、古代道路跡が帯状窪地として残り段々畑のような耕作地として使用されたケースは、倶利伽羅峠の北陸道でも見かけました。
条理地割の基準線となった南海道
航空写真を使って地形から古代道路の痕跡地形を探す方法は、歴史地理学の故・木下良先生が確立されたものです。
特に過去の航空写真により開発で失われた痕跡も拾い上げ、現地形と突き合わせることで具体的な想定ルートを復元することが可能となりました。本ブログの方法論もこれを真似したものです。
ここでダメ押しに峠の西、橋本市隅田町に残る条理地割をチェックしてみましょう。下は1974年航空写真上で、一町方格の条理地割を復元したものです。
峠から西に伸ばした南海道の想定ルートが、きれいに条理地割の上に載っています。駅路と条理が同時期に一体で整備されたことが分かります。南北軸が西へ約27度傾いているのはそのためでしょう。
また、山陽道で見られるような条理余剰帯と呼ばれる道路敷地は存在しないようです。これは紀伊国全体での特徴なのか、興味あるところです。
山陽道の例はこちらをご覧ください。
余談ですが、南海道のルートは条理上と峠内で約2度ほどずれがあります。この屈曲点は条理方格との交点上に、極めて精巧に設定されており、当時の設計・土木技術の高さをうかがわせます。
こういう古代の”いい仕事”を見つけると、ブログ主はハッピーになります!😉
さらに西側のルートは?
真土峠西エリアの先、南海道はどんなルートを辿っていたのでしょうか? 結論としては、上のようなやり方ではどうしても復元が出来ませんでした。
この紀ノ川北岸の南海道は平安時代に和泉国の海岸寄りを通るルートへの変更により廃止されています。そのためか、明瞭な痕跡地形が残っていないのです。
下図は、条理地割と遺跡群、地名などを頼りに南海道ルートを推定された地元研究者の労作。条理地割が最大の手掛かりですが、条理方格を斜行したり余剰帯があったりなかったりと、山陽道のような一貫性がないようです。
こうなると最早、議論の余地のない駅路遺構が複数個所で確認されるのを待つしかありません。駅路側溝の可能性のある遺跡(川辺遺跡1,2,3次調査)も見つかっていますが、南海道であるかどうかは未確定です。
こういう時、ブログ主は「分からないものは分からない」と潔く諦めることにしてます!😉
本ブログとしては紀伊国での痕跡地形探し・ルート推定はここまでといたしますが、ご興味のある方は地元の団体が立ち上げたサイト「南海道を歩く」をご参照下さい。
なお本記事は、和歌山県文化財センター『シンポジウム南海道の原風景 ─ 発表資料集 ─』2020年 を参考としています。よろしかったらご一読下さい。
以上、自宅で出来る古代道路探し、いかがだったでしょうか? 専門家でなくともPCがあれば、ここまで”歴史推理”を楽しむことができます。皆さんも是非、チャレンジしてみてくださいね!
以 上
今回の実踏&考察はまたまた面白く、ためになりますねえ。万葉歌碑前を通る南海道の痕跡、くっきりです。よくぞ発見されました。
和歌山の南海道痕跡は本日、実踏編をアップしました。消えゆく駅路痕跡をこれからも捜し歩いて参ります!