現地レポート

【改訂版】常陸国の古代駅路 ⑤日立市の長者山遺跡(藻島駅家推定地)

陸海交通の結節点・長者山遺跡

蝦夷征討の名の下、律令国家が東北地方で拡大政策を進めていた奈良時代。

常陸国では、最前線の陸奥国へ兵士や兵糧などを海上輸送するために、水陸一体化した交通網が整備されたと考えられています。

下は駅家と河川の位置関係を図にしたものです。石岡市にあった国府以北では、駅家はほぼ全て渡河点付近に設けられていたと推定されています。

木本雅康『日本古代の駅路と伝路』同成社 2018年

この内、平津駅については、古代には涸沼周辺に広大な潟湖(ラグーン)があり、陸奥国へ向けた輸送船団の港に設けられていたと見られています。

古代の航海では風待ち・潮待ちのための港が多数必要であり、外洋と切り離されたラグーンはその好適地でした。

そして、今回訪れた藻島駅もやはり、トップ画像に明らかな通りラグーンを見下ろす丘陵上に位置していたようです。

駅路と港という陸海交通の結節点にあったと推定される藻島駅は、常陸国に特徴的な駅家の姿を現代に伝えてくれています。

古代の駅家に出会える場所

藻島駅家は文献資料で存在していた時期が分かる珍しい古代遺跡です。

養老2年(719)頃に編纂された『常陸国風土記』に名前が見え、『日本後紀』の弘仁3年(812)に廃止の記事があることから、約90年間にわたり営まれていたことが分かります。

この時期は、「蝦夷征討」が次第に本格化し、宝亀5年(774)の海道蝦夷による桃生城襲撃からは「38年戦争」が始まりました。征討終了による”終戦”は弘仁2年(811)で、早速、翌年に藻島駅が廃止となったわけです。

発掘調査の結果もこの年代観とほぼ一致しています。

8世紀中葉から9世紀中葉の施設はコの字型に配置された12棟の掘立柱建物からなり、駅家として機能していたものと考えられています。

また、9世紀中葉以降の施設は、倉庫と見られる8棟の礎石建物からなり、多珂郡正倉別院と考えられています。郡家とは別に、税として徴収された米を保存するための施設です。

     日立市教育委員会『東海道常陸路及び長者山官衙遺跡 藻島駅家推定遺跡発掘調査成果総括報告書』2017年

では、現地を歩いてみましょう!

とはいっても発掘現場はきれいに覆土され、普通の杉林と変わりありません。詳しい案内板もありません。

写真は、駅路の広場状部分北端の塚(※上図参照)から駅家方面を見渡した。奥に見えるのは愛宕神社。後ろ姿は古街道研究家の宮田太郎さんです。

目の前を左右に駅路が走り、その向こうに建物群が並んでいる古代の景観を想像下さい!

無理!、という方もご安心下さい。下の日立市さんの紹介ビデオが大変分かりやすく参考になります。

明瞭に残る古代東海道の切通し遺構

そもそも遺跡発見のきっかけになったのは、藻島駅路地区に約280mにわたって続く切通し遺構でした。

トレンチを入れたところ、両側溝を持つ側溝芯々間距離6.73mの道路跡が見つかりました。それではということで、長者山遺跡を調査したところ建物跡が発見されたものです。

現在でも地形はそのまま保存されていて、中を歩くことができます。まずは入口部分から。

林間もきれいに整備されていて、お椀型の地形がよく見通せます。

切通しの出口先、小石川氾濫原には田んぼが広がっています。駅路は写真中央の切通しへ向かって直進しています。

駅路が向かう東北の古代城柵群

駅路はこの先、陸奥国内を延々と北上し、途中で東山道と合流。その先は陸奥国府の置かれた多賀城となります。

さらに北上川を遡ると古代城柵遺構が点々と残り、常陸国が兵站基地として支えた「蝦夷征討」のスケールの大きさを感じることができます。

終わり

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